小名木川東端付近:小松川閘門新設工事

アユミギャラリー
2003年
夏の企画写真展

 

『結』

望月 祐志
Mochizuki yuuji 

 

index

next→

AYUMI GALLERY

 東京はかっては水上交通が盛んな「水の都」でもあった。幕政の江戸は、既に人口の集積が進み、大量の物資の輸送が必要であり、隅田川はもちろん、大小の水路・運河が開削・整備されて水運に利用されていたのである。特に、海の荒れる房総を回らず、東北方面からの船を銚子から利根川、関宿から江戸川、さらに新川を経由させて江戸に入れるため、400年程前に徳川家康が小名木川四郎兵衛に命じて開削させた小名木川は要所であった。
 昭和5年に荒川放水路が完成し、元の中川と小名木川の合流部付近の地形は大きく変えられ(中川は旧中川となる)、結果として隅田川との水位差が生じて荒川からの船の航行に支障が出たため、江戸川区小松川1に接する江東区東砂2の北東端に小名木川閘門、小松川1に小松川閘門が相次いで建設された。小名木川閘門は、その後周辺土地の地盤沈下により機能不全となり、昭和39年に隣接する小名木川排水機場の排水路を仕切る水門となったので、航路には小松川閘門が使われるようになった。
 しかし、戦後の高度成長期、車が物流の主力となっていくと、国道14号や首都高7号線などが動脈となり、千葉方面からの水運路としての小名木川の役割は終わっていく。昭和51年に小松川閘門は閉鎖され、日本化学工業の旧小松川工場が投棄した六価クロムの鉱滓の中に埋もれるという末路を辿った。工場の移転後、日化工と都の協定に基づいて汚染土壌の還元処理と封じ込めの措置が取られ、盛り土によって新たに整備された大島小松川公園(風の広場)の最上部、小名木川を西方に見下ろせる場所に、石造りの上部を露出させる形で旧門が保存されている。また、小名木川自体も、「川の手」を謳う江東区のまちづくりの中で西側を主に保全努力が払われ、横十間川を交えての水上バスの運行も行われている。
 荒川から旧中川・小名木川東端へと入る航路の必要性が改めて認識されることになったのは、平成7年の阪神大震災を教訓とする災害緊急時における水上輸送路の確保の重要性からである。平成10年から今年度までの予定で、旧小松川閘門より南側、小名木川排水機場の北側の所で荒川からの運河開削と閘門新設の工事が行われている。閘門には、小松川閘門の名が再び冠せられており、名誉回復というところだろうか。ただし、新設場所一帯も旧門同様に六価クロムによって汚染されているため、工事は汚染土壌の隔離等の環境対策を取りつつ進められている。つまり、生産優先で公害対策が省みられなかった高度成長期の「負の遺産」のツケ払いをしながら、荒川と小名木川を結ぶ水路の「再生」が図られているのである。
 小名木川は、東京が「水の都」であった、あるいはこれからもその要素を持ち続けるであろうことを私たちに気づかせ、そして考えさせてくれる貴重な川であり、とりわけ、その東端付近は土木的様態・光景が人の手によって繰り返しつくり変えられている象徴的な場所である。

(上左:小名木川東端付近の旧中川。浚渫工事が進められている。左側に大島小松川公園がある)

(上右:旧中川南端、小名木川排水機場の取水口付近、左側が小松川閘門の新設工事現場になる)

(下左右:小松川閘門新設の工事現場。六価クロム汚染土壌は還元処理後に仕切り板区画に隔離)