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1.エピローグ |
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夜明け前、エールフランス機が高度を下げると宝石をちりばめたようなパリの灯が見えてきた。それは僕に、現実に引き戻される感覚を感じさせた。西アフリカは全くの異界だった。秋の初めにパリを発って、西アフリカへ。そこは毎日40度を超す猛暑と灼熱の太陽。熱にうなされるように町を歩き、市場へ行き、大自然に圧倒される。それが、パリの空港の外に出ると、季節はもう冬に変わっていた。バリの歩道は枯れ落ち葉のにおいがしていた。そこでは何事もなかったように何不自由ない暮らしが営まれていた。まるで自分が竜宮城から帰ってきた浦島太郎になったような気がした。腕時計のベゼルの隙間に入り込んだ赤い土が、それが夢でなかったことを証明していた。 数時間前、日本の地方空港よりも小さいバマコの国際空港を飛び立つとき、バマコの灯りが見えた。それはパリのそれと違ってオレンジ色をした裸電球がまばらに散らばっているような感じで、とても弱々しく思えた。と同時にそこで暮らす人たちの様子が思い浮かんで来て妙にいとおしく思えて来るのだった。ついさっきまで自分もあの中にいたにも関わらず、それを見下ろしているのが天国に昇っていくようでもあり不思議だった。宿のおばさん、近所の子供達、すっかり意気投合したドゴンのガイド、彼等は今あの光の中で何をしているのだろうか?どんな夢を見ているのだろうか?旅人たちは夜行バスに揺られながら次の目的地へ向けて走っているだろう。そんなことを考えていると、行く先々でしつこく声をかけてくるガイドたちさえもいとおしく思えてくるのだった……。 |
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2.人の住む始まり |
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「ジャポネ!ジャポネ!」マリの街や村を歩いているとあちらこちらから声がかかる。彼等はたいてい道ばたの木の木陰や建物の影に数人でしゃがみ込んで甘い緑茶を飲んでいる。たいていは土産物を売り付けようとか、ガイドをさせろとかいうことなのだが、あえて話の輪の中に加わってお茶をごちそうになってみる。多くのツーリストは、彼等のしつこさを嫌って炎天下の道をそのまますたすたと歩き続けるが、ひとたび木陰で甘〜いミントティーを飲んでみると、これがまた気持ち良くてやめられなくなるのだ。はじめは何か買わせようと言って来る彼等も、僕が何も買う気がない事が分かるとあとはどこから来たかとか、結婚してるのかとかたわいのない世間話をするだけだ。何も買わないなら帰れなんて事は絶対にない。基本的には好奇心旺盛で人なつっこい人たちなのだ。 |
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暑くて乾燥した土地では、日陰はとても重要だ。マリの人たちは日中家の中にいる事はほとんどない。大抵は先程書いたように木の下や建物の日陰に木彫りのスツールやパイプ椅子なんかを出して涼んでいる。ニジェール川の上を行く船でさえ乗客は自分の船室にいる事はほとんどない。船室の並ぶ廊下で日陰を見つけてたたずんでいる。当然、太陽は動くから日陰も動く、人間はその動きにあわせてまるで日時計の様に椅子を引きずりながら動いてあるくのだ。 そんな具合だから伝統的な住居なども室内空間よりもむしろ外部空間の日陰を重視しているようだ。ドゴン族の多く暮らす地方都市、バンカスで僕が泊めてもらった標準的な住宅は、塀で囲われた中庭の真ん中に葉の茂った大きな木があって、女達が食事の支度をする時も、子供達が学校から帰って来て勉強する時も、昼食を一つの器から皆で食べる時もその木の下だった。逆に室内は窓がほとんど無く昼でも暗い、日差しの強いマリでは窓を作る事は日差しによる室内気温の上昇をまねく。雨はほとんど降らないから少しでも風通しの良い外にいる方が気持ち良いのだ。もっともそんな事を知らなくとも、僕もまた体が求めるままに木陰に吸い寄せられてしまうのだった。これが扇風機の付いた宿なんかに泊まってしまうとそうはいかない。つい扇風機を回して部屋に籠ってしまう。そこにはコミュニケーションも生まれないし、電気も使う。木陰は彼等にとっては社会的な役割を持つモノでもあるのだ。 |
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伝統的なドゴン族の村にあるトグナと呼ばれる集会所は、人工的な木陰だ。木や石で地面に8本の柱を建て、水平に梁を掛け、その上に木の枝や麦わらを何層にも積み重ねて厚さ約90センチほどの屋根を作る。この位の厚さがあると西アフリカの強い日射もモノともしない。壁は無く風通しはいい。さらにその水平な天井(屋根)の高さは大人の男が中腰でやっと立てる位の高さしか無い。軒の高さが低ければそれだけ日射が奥まで入り込む事はないし、彼等が言うには集会で議論が白熱して喧嘩になっても立ち上がって争う事が出来ないので、喧嘩にならないのだと言う。トグナの下の地面に座ってタバコを吹かしたり、コーラナッツを齧ったりしながら話し込んでいる彼等の姿は実に優雅だ。これは日陰がコミュニティーを形成、維持している象徴的な例だろう。 |
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住居は本来自然環境と身体の要請に基づいてできるものだ。例えば日本でキャンプに行った時のことを考えてほしい。キャンプ場に到着してテントを張る時、大抵は大木の脇など、何かに寄り添うような場所や水場の近くを探すし、入り口の向きは他のキャンパーのテントとの関係を考える。かまどを作る場所も風向きを考えたり、かまどの前に座った時の位置が感覚的にしっくり来るような配置を考える。それと同じように、ドゴンの集落における住居の配置には人類学的な見地からの解釈もあるが、それを守りつつも身体感覚の要請に基づいて構築されている感がある。そういったことから出来た集落は、日本の造成された住宅地のように整然としてはいないものの、人間の生活や地形になじんでおり、思える。当然土地利用の効率は悪いのだろうが、その効率の悪さによって逆に自然と共存出来ているのではないだろうか。 このように、人がそこに住むと言う事はの原点は、自然の中での自分の無力さや不安、恐怖を避けるためにすがることのできるモノがそこにあり、そこに人が惹き付けられ、集まる事だったのではないか。そこから始まって、暖をとり調理をするためのかまどを作り、雨風をしのぐための屋根を掛け、寝床を快適にしたり、外敵から集団を守るための塀や柵を廻したりするという事を行って来たと考えられる。そして、それらの行為がそれぞれの土地の自然環境やそれぞれの民族の文化的社会的背景を映しながら様々な住居の形を形成してきたのではないだろうか。
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3.人の住む始まり-2 |
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マリ共和国のバンディアガラの断崖はニジェール川の南側、ブルキナファソとの国境にほど近い所にある。高さ100メートルほどの崖が数百キロに渡って続いている。この崖にへばりつくようにドゴン族の住居とピグミー族の住居が無数に並んでいる。崖の高い位置にある泥で出来た大きな壷のようなものがピグミーの住居で、斜面が垂直な崖に切り替わる付近にある土壁の直方体の建物がドゴン族の住居と穀物倉庫である。バマコの周辺の平地に住んでいたドゴン族がイスラム化を嫌ってこの地に移り住むようになった。ピグミー族はそれ以前からこの地に住んでいたらしい。ピグミーは成人でも身長80センチほどの部族で、狩猟民族であった。やがて気候の変動のため乾燥が進み動物が減ったためか、彼等は南へ移動して行った。 |
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4.ピグミー族の住居 |
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身体の小さいピグミー族の住居は、崖の岩肌のくぼみなどを利用してそのまわりに泥で薄い壁を作っただけの原始的なものである。しかし、それらは人間がある場所に住むという事を考えるにはとても参考になるものであった。彼等の住居は、ちょうど人が入れる位の大きな瓶を岸壁に埋め込んだような感じである。それらは身体の小さな彼等でも2、3人がやっと寄り添える位の大きさしかなく、寝るだけの場所で、炊事場などの機能を持った部分はない。住居というよりは動物の巣のような印象だった。動物と言えば、心地い場所を探す才能に恵まれている。僕は家で犬を飼っているが、彼は実に家の中の心地よい場所を熟知していて、季節や時間、天気によって移動していつも気持ち良さそうに寝そべっている。それと同じように崖の岩肌は、気温が40度を超えるこの地でもひんやりしていて実に心地よい。さらに崖のオーバーハングが日陰を作っている。崖の下には平原が広がっているのだが、ほとんど隠れる場所のない平原は、塀などを作って外的から身を守る建築の術を持たない彼等にとっては不安な場所だったに違いない。それに比べてこの断崖は、依って立つ事のできる精神的な拠り所であり、先述のように環境的にも暮らし易い場所だったのだろう。こういった原始的な形を持つ住居は、人間の身体性に大きく依存した住居であると考えられる。 |
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5.ドゴン族の住居 |
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ドゴン族は農耕民族でミレット(トウジンビエ)と呼ばれる穀物を主要な作物としている。ドゴン族が崖地に住む理由としては、2つの説がある。一つは、平地は大切な農地であり、必然的に彼等は崖の下の斜面に住居と穀物倉庫を作って住みはじめたという説。もう一つは、イスラム化を進める敵対勢力に対する防御のためである。ピグミーの住居が断崖という地形を利用してしか出来ないのに対して、ドゴンの住居はマリの他の地域で見られる住居のスタイルとそれほど違いは無く、平地から持ってきた住居を傾斜地に適応させたように見える。ピグミーの住居とドゴンの住居は、その形態を決定付ける過程や生態学的妥当性においてはあまり関連がない様に思える。同じ場所にあるという理由で、先住民であるピグミーの住居が進化してドゴンの住居になったと思われがちであるが、おそらくそれは当たっていないだろう。ただ、実際に彼等の住居に行ってみると、先にも書いた通りとても過ごし易い環境である事に気付く。この地に移って来たドゴンの人々は、ピグミー達の住居が崖地にあるのを見て、この地のきびしい環境に適応する術を学んだのではないだろうか。
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6.狂った時計 |
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アフリカ、中でも西アフリカは日本人の意識からもっとも遠い地域の一つだろう。パリダカールラリーのゴールで有名なダカールと言う街は聞いた事があってもそれがセネガルの首都であると言う事は意外に知らない。マリに至っては日本で得られる情報は壊滅的に少ない。 北アフリカも含めると今回でアフリカは4回目となる。なぜ、それほどまでにアフリカなのか?アジアでもヨーロッパでもなくアフリカが僕を惹き付けるのか?サハラ砂漠の北の端でオアシスの農園で働く出稼ぎの黒人たちの歌を聞いた時、「これがアフリカのリズムだ!」と思った。海のように果てしなく続くこの砂漠の向こうを見てみたいと思い始めたのはこの時からである。東アフリカを縦断した時、ナイル川の水を飲んだ。「アフリカの水を飲んだ物はアフリカに帰る。」ということわざがある。そのことわざ通り今回またアフリカに帰ってきた。人類はアフリカで誕生した。僕らはみんなその末裔だ。 |
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「どうしてアフリカに行くのか?」何度もその質問を受けた。別にアジアでもいいではないか。アフリカは僕の意識のアンチポデスだ。日本で暮らしていると、いつのまにか当り前でない事が当り前に感じるようになって来る。例えば時間通りにやって来る電車、いつどこでも携帯電話で連絡が取れること、インターネットで世界につながり、スイッチを押せば電気がつき、蛇口をひねれば水が出る。いつの間にか僕らはそれらがどこから来てどういう価値を持つのか忘れてしまう。世界の中で見ればごく限られた先進諸国の人間だけが享受しているそういう常識は、実は全然当たり前じゃないのだと言う事をアフリカは気がつかせてくれる。それはまるで気がつかない内に狂ってしまった時計を合わせ直すような行為だ。 |
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僕は住宅の設計を生業としている。家を設計すると言う事は、そこに住む人の生活を考える事だ。だが、今や住宅は数値で表せる快適さや便利な機能を持った設備機器ばかりが求められ、そうでなければ生活実感を伴わない小難しい抽象論で語られるかだ。住宅が根源的に持っている住人の生命を守るシェルターとしての役割や身体感覚として分かる気持ち良さはどこに行ってしまったのか?水は川か井戸から汲んでくるもの、火は薪をくべて起こすもの、ニワトリを殺して肉にするということ。人間が自分達の力で自然との関わりの中で生きている社会では、生活の本質、生きるという事が浮き彫りになる。それは僕にとって、自分の中の狂った時計を修正し、もう一度生活の場としての家を考えさせてくれるのだ。 |
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