神楽坂建築塾 第五期 修了論文

産業と交通と地方都市の盛衰

―栃木県足利市の場合―
  神楽坂建築塾塾生 久保正人

目次

1.足利はどんな街か

6.鉄道の開通

2.令制による東山道の制定

7.50号バイパスの完成による、市街地の広がり

3.渡良瀬川と猿田河岸

8.足利学校の再建

4.日光例幣使の街道

9.北関東自動車道

5.助戸の新道―県令三島通庸による都市化

10.今後

  

頁はじめに戻る

1.足利はどんな街か

 足利市は栃木県の南西部に位置する地方都市です。東に佐野市、南西に群馬県の太田市、桐生市、館林市などが接しています。両毛五市といわれ、県をまたがって1つの文化が形成されていました。
 東武鉄道により浅草まで直通されているので、東京に対する市民の意識は強いと思います。途中久喜駅でJR東北線とも乗り継ぎが出来るので、大変便利です。
 市の中央を東西に渡良瀬川が流れています。この川は大変な暴れ川で足尾の水源地に豪雨が降ればたちどころに洪水を引き起こしていました。昭和22年のキャサリン台風では、渡良瀬川と袋川の堤防が決壊し大災害となりました。市街地の中心で床上浸水までしたそうです。
 北部は足尾山系があり、関東平野の終点となります。私が小学生の頃は、田んぼばかりだったので、天気の良い日は登校中に富士山が見えました。その姿は大変小さいものでしたが、はっきりと脳裏に焼き付いています。また、豊富な地下水を利用している水道はおいしい水を供給してくれます。
 人口は約16万人。私が小学生の頃から変わっていません。一時17万人に届こうかとゆうときもありましたが、また元に戻ってしまいました。しかし、減っていないと言ったほうがいいかもしれません。なぜなら産業自体発展していないからです。
 歴史的なものですぐに思い出すのは、足利学校と、足利尊氏ではないでしょうか。足利学校は「坂東の大学」といわれ、かのフランシスコザビエルによってヨーロッパにも紹介されています。その当時3000人の生徒がいたそうです。平成2年に再建され、NHKの大河ドラマ「太平記」のブームにものり、たくさんの見物客でにぎわいました。現在も土日ともなると、観光のためにたくさんの人が足利を訪れます。
 足利学校の北西に“鑁阿寺(ばんなじ)”があります。足利氏の氏寺で“大日様”と呼ばれ、今も市民の憩いの場として親しまれています。子供の七五三でも多くの親子が“大日様”にお参りします。足利義氏の建てた本堂は鎌倉時代のもので、国の重要文化財となっています。
 産業として真っ先に触れなければいけないのは、織物の町としての発展です。近代において織物は花形産業でありました。足利市はその潮流にうまく乗ることが出来ました。両毛地区は古くから水田よりも畑が多いところでした。特に群馬県は養蚕が盛んで、私も小さいときの記憶として桑畑を覚えています。現在も養蚕業を営んだ越屋根のある民家が数多く残っています。
 企業の近代化には金融面の支援も不可欠でした。第四十一国立銀行の支店が明治12年に開設されましたが、地元銀行の必要性が生じ、明治28年足利銀行が開業しました。その後足利銀行は本店を宇都宮市に移転し、日本でも屈指の地方銀行となりました。
 さまざまな条件を整えた足利市の織物業界は、“足利_仙”により全国一の銘仙産地となりました。その出荷先は東京、大阪、京都、横浜などの主要都市、そして世界にも進出しました。戦後もトリコットにより足利は潤いました。生地を作る人、染める人、縫製品を作る人と地域ぐるみで地場産業として発達しました。昭和30年代には全国の三分の一の出荷額を占めピークを迎えます。
 昭和40年代後半のドルショックにより、織物とトリコットが大打撃を受け急激に衰退しました。また、主要交通幹線から外れている足利市は、高度成長時代の恩恵を受けることもなく現在にいたっています。
 しかしながら、足利市の産業がこれほどまでに発展したことに大変に興味があります。織物業自体は地の利を生かしていますが、鉄道の敷設、銀行の設立など市民の大変な行動力を感じます。
 近年まで両毛地区の中心として機能していた足利市ですが、不景気な世情を反映してか各メーカーの支店はことごとく撤退しています。また市民の生活も近隣の街の影響を受け始めています。昨年3月には佐野プレミアムアウトレット、続いてジャスコの開店。そして12月には太田市の大型イオンショッピングセンターの開店と続き、商店街の集客力の衰退も懸念されます。
 このように足利市は繁栄と衰退を繰り返し経験しています。こんな自分の故郷を産業と交通の発展を中心に振り返り、将来の展望を考察してみたいと思います。

 

 頁はじめに戻る

2.令制による東山道の制定

 足利の都市起源はいつの頃でしょうか。その一つとして考えられるのが、令制で定められた東山道の駅家が置かれ、交通集落になったことです。
 足利町は“曲尺型の街路”をしていましたが、ここを東山道が通っていたと考えられています。その曲がり角に「足利駅家」が馬家として設置されていたようです。
 この頃条理制の水田区画が施工され集落に影響を与えたと思われます。現在の緑町あたりです。坪井正五郎による日本で最初の近代的古墳発掘で知られる「足利公園古墳」もこの緑町南部にあります。
 古代の道では、東山道の駅路の研究はもっとも進んでいるようです。この道は人の往来と物流だけでなく、都市と陸奥を結んだ軍事的道路でした。当時、下野国から都までは、往路34日、復路17日の工程がかかりましたが、12月末までに調庸物などを運ばなければいけないので、寒さが厳しい時期に碓氷峠や神坂峠などの難所を越えなければならなかったようです。旧暦のことですから、今で言えば12月や1月にあたります。
 しかし、この東山道は両毛地区の中心であったことには変わりなく、少し道を変えて中世東山道まで続きます。
 中世東山道は、「太平記」で有名な新田義貞も利用しています。新田義貞の鎌倉攻めは、挙兵後新田壮から東山道を西進していきます。これは、増水期の利根川を渡るのが大変だったためです。そしてこの年、1333年足利尊氏は六波羅探題を攻略、新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼします。

 

 頁はじめに戻る

3.渡良瀬川と猿田河岸

 「坂東太郎」と呼ばれる利根川は千葉県銚子市付近で太平洋に注いでいます。江戸時代前期以前は東京湾に注いでいましたが、江戸幕府の改流工事により現在の流路となりました。これは江戸を中心に利根川水系を利用しようとする狙いがあったようです。
 ご存知の通り、江戸といえば世界一の都市を形成していましたが、その発展に伴い年貢米の運搬や、物資の消費量の増大、商品の流通をまかなうために船による輸送が必要不可欠な手段となっていました。
 幕府は五街道を中心に陸路を整備しましたが、米俵などの重い荷物を輸送するにはどうしても船で運んだ方が量、時間、コストの面で優れていました。こうした背景の中で河岸が発達します。利根川の支流の一つである渡良瀬川も例外ではありませんでした。
 河岸をつくるにあたり足利より上流では渡良瀬川の勾配がきつくなり、船の遡航が難しかったため、足利より下流の猿田河岸までが限界だったようです。1645年に幕府の許可を受けて北猿田河岸が開設され、足利や桐生周辺の年貢米や商人荷物の積み出しで栄えました。次いで、南猿田河岸が江戸中期に開設されたと考えられています。

 

 頁はじめに戻る

4.日光例幣使の街道

 徳川家康の眠る日光東照宮へ派遣される日光例幣使は、1646年から1867年まで続きました。例幣使に任命されたのは公家で一行は50人からなっていました。毎年4月1日に京都を出発し、15日に日光に到着。翌日、例大祭の行事を済ませ宇都宮経由で江戸に出て、東海道を利用して帰郷するのが一般的だったようです。つまり往路だけなので、年に一回しか街道を通過しなかったのです。
 この例幣使街道は五街道と同時に制定され、北関東の東西交通路として機能していました。例幣使街道は奥州街道と中山道を結ぶ道でありました。これにより、江戸を通らずに京都、大阪へ向かうことができました。また、輸送路としても発達しました。江戸に商品を運ぶ際、例幣使街道沿いに河岸が並びそこから船で運ばれました。そして、地域住民の物資の輸送としても重宝されたようです。
 足利では八木宿と簗田宿が宿場町として発達しました。しかしながら明治にはいると、例幣使街道が足利町を通過していなかったことや、細い道が多かったこと、渡良瀬川にかかる橋がなかったことなどの理由によりその機能を失ってしまいました。
 例幣使街道は、幕末の戊辰戦争の道でもあります。最近まで、簗田戦争のときの刀傷や弾痕を残す建物が残っていました。しかし、今では宿場の面影は残っていません。

 

頁はじめに戻る

5.助戸の新道―県令三島通庸による都市化

 足利市は江戸の頃より織物産業が発達し、明治に入ると多数の元機ができました。戦争と恐慌による不景気もありましたが、順調にその業績を伸ばしました。
 県令三島通庸により県南横断道路が1884年に完成します。この道路の一部にあたる足利町と助戸村を結ぶ「助戸の新道」により、足利の織物産業はさらに発展します。現在の県道桐生・岩船線です。(市民は旧50号と呼びます。)
 この道路の工事において次のようなエピソードが残っています。

阿蘇郡選出の県議だった田中正造の自叙伝「田中正造昔話」によると、県令三島は、新道の測量線を助戸村の豪商木村浅七邸の真ん中に突き当て、寄付金を要求した。しかし断れたため強制的に建物を破壊し、屋敷を分断して新道を貫いたといいます。

「下野新聞  平成16年2月18日号   とちぎ街道ストーリー 5」より

 この道路は現在の旧市街地の中心を東西に走ります。いまでもぽつりぽつりと昔の建物が残ります。年配の方の話では、戦後早い時期に好景気を迎えたために木造の建物が次々に取り壊され、鉄筋コンクリートの建物が多く作られてしまい、その町並みは損なわれてしまったといいます。
 今でもかつての建物が残っていれば、“足利学校”や“鑁阿寺”とともに風情ある町並みを楽しめたものと思われます。
 1883年に東の織物取引市場である「共開社」が開設され、「助戸の新道」の完成と相まって足利市の東部は急速に開発が進みました。そして、鉄道の開通を待ちます。

 

  頁はじめに戻る

6.鉄道の開通

 1884年に日本鉄道(上野―前橋)、1887年現東北本線(郡山まで)が開通すると、その間にはさまれる両毛地方の東西連絡鉄道が地元の住民より望まれるようになりました。
 足利の織物買継商の木村半兵衛などが中心となり、足利に本社を置いて両毛鉄道が創立します。当時、鉄道は投機の対象として注目されていたので、東京の資産家の参画を得られました。
 1888年両毛鉄道の足利駅が市場の東にできると、陸運会社も進出し新道沿いには一大流通拠点が形成されました。
 1889年に全通した両毛鉄道には、生絹の高崎、生糸の前橋、絣織の伊勢崎、西の西陣東の桐生、足利、麻集積産地の栃木と、関東外縁部の繊維産地が並んでいました。のちに“シルク鉄道”と呼ばれ、中でも桐生と足利は戦後まで繊維業界の中心をなすことになります。
 1895年、東京と両毛の工業都市を直結するために浅草―足利間の免許が申請されました。東武鉄道です。1897年に会社が設立され利根川を越えるのに時間がかかりましたが、1907年に足利まで開通し1910年に伊勢崎まで全通しました。
 渋川までの鉄道延長免許申請が却下されたことや、東武鉄道の敷設が進むことにより両毛鉄道の勢いはなくなり、1897年に日本鉄道に合併され、日本鉄道は1906年に国有化されます。

 頁はじめに戻る

7.50号バイパスの完成による、市街地の広がり

 旧国道50号の交通渋滞解消などを目的に、1960年代半ばからバイパスの整備が始まりました。1972年東北自動車道の佐野・藤岡IC前後の約8キロが部分開通。1975年に足利市の県境から岩船まで暫定開通。1985年には、栃木県内全線が開通しました。
 このバイパスの整備と前後して、市内では渡良瀬川の南側の地区が発展し始めます。新しい工業団地や問屋団地が完成し、50号バイパス(国道50号)は交通の要として現在も活躍しています。また商店街も整備されると集客力も向上し、両毛地区一番の商店街となりました。そして織物業でにぎわった旧市街地の華やかな時代は終わりを告げました。
 実際このバイパスによって、小山市までは何のストレスもなく通行できます。昔の集落をほとんど通らないため、県内のバイパスはほんの一部を除いて4車線化の整備が終わっています。まことしやかなうわさとして、日本で一番平均速度の高い道路と言われています。佐野・藤岡ICで東北自動車道に乗ると、30分足らずで首都圏に入ります。

 頁はじめに戻る

8.足利学校の再建

 旧市街地では商店の閉店、歓楽街の衰退が目立ち、現在では人通りもまばらでかつての繁栄を偲ぶことはできません。その中で、足利学校の再建とその周辺の整備は特筆すべきです。
 復元なった足利学校は江戸時代のものです。足利学校の最盛期は中世後半(室町時代や戦国時代)だったので、本来であれば中世の地層の発掘調査を要望したようです。しかし、江戸時代の跡を壊してしまうことになるのではないかということで江戸の地層で止めたようです。
 現在足利学校では生涯教育の講義や、漢字検定の試験なども行われています。もちろん、内部の見学も出来ます。

頁はじめに戻る

9.北関東自動車道

 現在、足利で建設が予定されている道路といえば、北関東自動車道があります。この道路をきっかけに新しい工業団地や北部開発が予定されています。北関東自動車道が建設されると関越自動車道高崎ジャンクションから伊勢崎、足利を通り、東北自動車道を経由し茨城の水戸まで開通します。
 この事業の目的の一つとして、“北関東自動車道は、群馬、栃木、茨城県の3県の主要都市を結び、現在建設中の常陸那珂港に至る延長約150kmの高速自動車国道であり、東京から放射線状に伸びる関越、東北及び常磐自動車道と接続し、上信越、中部横断自動車道と一体となり、東京から100〜150km圏を環状に連結する「関東大環状連携軸」を形成する路線です。”とあります。

「北関東自動車道(太田〜足利間)の事業概要等について」より    JH日本道路公団東京第一建設局宇都宮工事事務所

頁はじめに戻る

10.今後

 産業や交通網の発達で我々が得た利益は大変すばらしいものだと思います。私がこうして神楽坂塾に気軽に参加できるのも、便利な交通網無くしては考えられません。
 しかしながら、失ったものの多くはたくさんの時間をかけて成り立ったものです。日本人は、粘り強い精神とその研究熱心さで素晴らしい経済発展を遂げました。それは農業を営み、つらい仕事にも耐えうる真面目な日本人の気質が土台になっているとゆう記述がいつかの新聞にあったことを思い出します。その影で利益優先の風潮が蔓延し、大量消費を良しとする経済中心の社会によるひずみがあちこちで表面化してきました。
 栃木県では、鹿沼市役所の職員が産廃業者との確執により殺害される事件がありました。誠実に仕事を遂行しようとする勇気を踏みにじる事件です。また、足利銀行の破綻も大きな影を落としています。
 しかしかつての足利市民がそうであったように、今後をどうするか、どうしたいか、そのために具体的に何をするか。自分たちの手で作り上げていく気概が必要だと思います。
 例えば自己完結型の都市づくりは出来ないだろうか。食料の自給自足率を80%程度まで回復できないだろうか。地場産業中心の構造が出来ないだろうか。まだまだたくさんの考え方があると思います。どんな街づくりが可能なのか、考えていきたいと思います。
 佐野市、田沼町、葛生町の合併、さらに足利信用金庫と小山信用金庫の合併など時間はどんどん進みます。しかし時代は変わっても、渡良瀬川はゆうゆうと流れ、赤城おろしは強く吹き、織姫神社は街を見守り続けます。

主要参考文献

峰岸純夫、田中康雄、能登健[編] 街道の日本史16「両毛と上州街道」 吉川弘文館
菊地卓[監修] 写真集「足利の100年」 あかぎ出版
三田忠夫[監修]、新足利風土記編纂会[編集] 目で見る新足利風土記 株式会社国書刊行会
とちぎの小さな文化シリーズ企画編集会議 とちぎの史跡をめぐる小さな旅 下野新聞社
足利学校読本編集委員会[編] 足利学校読本「學校様の歴史と現代」足利教育会
下野新聞平成15年2月18日号 栃木街道ストーリー5「国道50号 1」

BACK