神楽坂建築塾 第五期 修了論文

「住まいのあり方」について思うこと

  神楽坂建築塾塾生 木原ひとみ

目次

1.

6.

2.

7.

3.

8.

4.

9.

5.

  

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1.

 子供の頃住んでいた家はずっと木造の小さな平屋だった。静岡県の清水市(今は静岡市になってしまったが)の興津という小さな町で、みかん山と、海と川も揃っているとても穏やかな町だった。親が果樹試験場というところに勤めていた関係で、その広大な敷地内に官舎が点在していて暫くその中に住んでいた。遊び場もいつもみかんの木に囲まれていて、土や草花や虫や風や光や音など沢山の自然をいつも肌で感じながら、様々な貴重な感覚が、この頃擦り込まれていった様に今にして思う。

 まず一番はじめは、みかん山の中腹にある2軒長屋の小さな家に住んでいた。隣は昔、伊藤博文が別荘に使っていたという大きな古い家があって、その家の庭にある池でよく遊んだりもした。あまりきれいな水ではなく、ある日滑って池にはまり、服はびしょ濡れ、汚い水も飲んで散々な思いをした記憶がある。(というか、事あるごとに親からそのエピソードを聞かされていたので、そんな気がしているだけかもしれないが・・)

 

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2.

 幼稚園に上がる頃には山の下の家に移って、その後も2度ほど近所の家に移り、少しずつ部屋数も増えていった。この頃の住宅は、1960年代かそれ以前に建てられたものだと思うが、垣根も生け垣だったり、木塀だったり隣近所との明確な区分けもないし、道も舗装されておらず、雨が降れば水たまりがあちこちにできてアメンボが出現したり、いきなり隣の犬が追いかけて来てびっくりしたり、外灯も昔懐かしい木の柱に傘が掛かっているあのタイプでまさしく昭和の風景だった。
 家の造りも、窓枠や雨戸や外壁もすべて木でできていて、引き戸鍵もクルクルと何度も回すもので、部屋は畳、お風呂も木製の浴槽でガスを点火して沸かすタイプ、トイレも汲み取り式、台所も瞬間湯沸かし器が外付けになっているものだった。まさしく昭和の家の代表的な形だったと思う。
 不思議なもので、この頃の記憶というものは、風景やにおい,音などとその時の自分の抱いていた感情などがセットになって色褪せずに残っている。自分の全ての原点はこの時期にあるように思う。

 

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3.

 中学に上がる時、親の転勤で香川県の善通寺市に引っ越しをした。ここは、以前よりももっと古びたボロ家だったが、一応小さな庭が付いていて地面に近い暮らしという点では変わらなかった。けれども、周りは住宅街だったので密集した場所での生活と、あまりに狭い間取りには、ちょっと勘弁・・という気持ちを子供ながらに感じていた。住まいに求める快適な環境について考える様になったのは多分この頃からかもしれない。けれども、ちょっと自転車を飛ばすと田んぼや池が広がり空気はとても気持ちよかった。金比羅さんも近く、ここからの眺めは最高で讃岐地方独特の(日本昔話に出てくる様な)景色が広がっていた。

 

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4.

 大学時代は東京の国立に住んでいた。初めての一人暮らしである。1980年代後半の事。部屋を探しに来た時、ちょうど駅前の桜並木が満開で「町の風景」がすっかり気に入り、ここに住もうと決めた。貧乏学生なので、風呂無しの6畳1間の、大家さんの家の一部を改造して玄関が別になっているという部屋だったが、庭を共有させてもらっていたので、外の物干し竿に洗濯物を干したり、近所の猫が庭で日向ぼっこしてるのが見えたり、のどかな環境だったと思う。そうそう、部屋に付いていた電話が今や幻のダイヤル式黒電話で、かかってくるとけたたましい音が鳴り響き(音量調節できない!)よく徹夜明けで熟睡したい時などは、電話を座布団にくるんで押入れの奥深くに押し込めて凌いでいた。
 私の部屋探しの基本は、利便性より環境重視型である。まず、その町の雰囲気が気に入るかどうかと、駅から離れていても(程々ではあるが)OK。家まで歩く道々が楽しいかどうか、木がいっぱい生えてて、大通りからは引っ込んでいて、静かなところ。そして地面に近いところ。集合住宅の場合は世帯数がなるべく少ないところ。あとは、日当たりや風通しがよくて、気持ちいい事。やはり、住まいは<心地さ・快適!>これがとても重要。

 

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5.

 社会人になると、目白のワンルームマンションに住む事になった。これは、会社の借り上げ社宅だったので、自分で探した部屋ではないのだが、ここで事件は起きた。新築で世帯数は15くらいの3階建ての小さなマンションだったが、引っ越して来た初日から、これはまずい・・と感じた。立地がちょうど、西武線の駅と駅の中間地点の大きくカーブした場所。しかも目の前にV字の道路があり踏切がダブルで付いているすぐ脇。電車はひっきりなしに最高速度で、けたたましく警笛を鳴らしながらカーブを通過してゆく。その時の振動と騒音たるや相当なもので踏切は鳴りっぱなし。昼間は留守にしているだろうと思われるかもしれないが、東京の電車というのは、早朝は4:30頃から終電は午前1:00過ぎまで動いているのである。疲れて帰って来て、熟睡したくとも電車が通過する度に、脳ミソが反応してしまう。休日も家でくつろぐ事なんてできない。疲れが取れない。ベランダは、すぐに煤けて真っ黒け。植物の鉢植えもちっとも育たない。窓を少しでも開けようものなら、話し声も聞こえない。
 けれども、こんな環境でもストレスの感じ方は人それぞれなんだなという事も同時に理解した。近隣の昔からの住人は平気なのだろうか?平気じゃなかったら、何十年も住めないだろうし・・それに同じマンションに住む同僚のストレス度合いも様々だった。
 二度と経験したくないけれど、貴重な経験をしたと思う。約2年間、耐えに耐えて漸く引っ越しが決まった時、積み重なった住宅ストレスと、これでやっとこの住環境から解放されるという安堵感で、倒れてしまった。そのまま1ヶ月間入院した。

 

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6.

 次に移った場所は、西池袋だった。立教大学すぐ近くの今度は間違いなく静かな場所だった。今度も会社の借り上げ社宅だったので自分で探した部屋ではない。今度の所は、更に世帯数の多い3階建てマンションになった。1フロアに15世帯くらい入っていて、一番奥の自分の部屋にたどり着くまでかなり距離があった。
 ここで体験したのは、欠陥住宅の現状だった。新築だったが、見えない部分の造りが手抜き工事だったのか、西側角部屋の状況は過酷な環境だった。夏の暑さは半端でなく冬の寒さも半端ではなかった。エアコンはほとんど用をなさず、外につながるホースの開口部付近のクロスは程なく湿気でメリメリと剥がれてきた。
 ある晩、大雨が一晩中降り続いた時、朝起きると、部屋の真ん中に直径1Mくらいの水たまりができていた。多分、外壁をつたって雨水が染み込み、幅木と床のフローリング風Pタイルの隙間から流れ込んできたのだと思う。びっくりした!何事かと思った。その後、部屋の埋め込み式蛍光灯が灯かなくなってしまい、球切れかと思っていたがこれも電気系統が雨水でやられてしまってのトラブルと判明した。
 ここには3年ほど住んだが、いよいよ次回からは、自分で部屋探しをする事となる。

 

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7.

 自分で住まいを探す時には、まず町を自分の足で歩いてみる。歩いていると、町の雰囲気や人の感じが伝わってくる。そうすると住みやすい町かそうでないかが自然と分かってくる。以前、平良先生のお話の中で、子供の頃は親の事情で必然的に住む場所が決められてしまうが、大人になってはじめて、ある程度自分の意志で住宅の環境を選択できるようになるものだという内容があったが、私はその通りだと思った。まさにその時の自分は大人の領域に足を踏み入れた時期だった。
 また、住まいに対する意識も人それぞれであることも確かで、利便性とか新築物件ならいいとか、不動産屋さんに行っても、現物を見ないで契約する人も結構多いのだそうだ。そんな事自分は信じられないが、以外とそんなものらしい。だから隣にどんな人が住んでいようが、どんな建物だろうが、景観がどうとか、緑が多かろうが少なかろうが、あんまり気にならない人が多数派のようである。
 では「住まい」に対してのこだわりを持っている人は少数派なのだろうか。
 確かに住宅事情とか、収入とのバランスなどは重要で、そんな理想の家なんて夢のまた夢的な話かもしれないが、私はそれなりに厳しい条件の中でも、こだわりを持ち続けていたいなあと思っている。

 

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8.

 長くなるが、次に私は文京区の茗荷谷に住んでいた。あちこちの町の雰囲気を探索している時に、偶然通りかかって一目惚れしてしまった町だった。今回は初めて自分で家賃を全額払って、ある程度長く住むつもりで、こだわって探した家だった。家賃7万円。ちょっと広めのワンルーム。引っ越しをするまでの間、あんまり嬉しくて、休みの度に自転車で何度も何度も新しく住む家(外観)を見に行った。とてもウキウキしていたと思う。
 ここも国立時代と同じく、大家さんが隣に住んでいて、しょっちゅう交流があった。駅から12分歩くけれど、アップダウンのある地形で公園や学校が多く、町全体が緑で溢れていて、小石川植物園の脇を通って神社の境内を抜けて家にたどり着く道のりが好きだった。そして帰って来るとホッとする家だった。大家さんちの犬とも仲良くなった。お花見のシーズンには植物園で宴会をしたり、近所の定食屋でも馴染みの客になった。
 自分が「まち」の一部になったような感覚。
 長年住んでいると、事件もあった。隣の広大な空き地(元企業の社宅跡)がデベロッパーの手に渡り、巨大マンションの建設が決定した。何百メートルも続く、大正時代に造られたという赤煉瓦の味のある塀が、ある時一気に取り壊され、仮設の鉄板の囲いになってしまい、まちの風景が一変してしまった。地元の住民はみんな残念がっていた。私もとても悲しかった。現在、マンション建設をめぐって、様々な議論がなされており、地下の水脈に影響があるとか、通行に関して工事車両の大きさと住宅路地の広さとの法的な問題がクリアされていなかったりなど問題が噴出していて、もしかすると工事そのものが中止になるかもしれないと言われている。これも、近隣住民の一致団結した協力体制結果だと思う。
 また、茗荷谷駅前には、同潤会大塚女子アパートが残っていたが、ここも数年前に老朽化のため取り壊されてしまい今は跡形も無い。

 

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9.

 そして現在私は、名古屋に住んでいる。転勤で移ってきてもうじき1年になる。住み慣れた東京を離れるのはとても寂しかったが、これまでも何度も引っ越しを経験してきたので、新しい土地に対しての不安感は無く、もうどうにもならないと観念してからは気持ちの切り替えは早かった。
 久しぶりの部屋探し。前回の時のようなワクワク感がまた蘇ってきた。名古屋出身の知人にいろいろと聞いて、住みたい町を絞り込む作業。そして、不動産屋さんから物件資料を取り寄せ、また地図を買ってきて、あれやこれやとイメージを膨らませる時期。これがとても楽しい。そして実際に、町に行ってみてまず歩いてみる。地図では分からなかった坂道や空気感を感じてみる。そして最後に、不動産屋さんが呆れるくらい、いろいろと部屋を見て回る。そうすると不思議と出会ってしまうのですね。お気に入りの部屋に。
 今回は、今までとは比較にならない程、住環境がアップグレードした。築30年の低層集合住宅だが内装はとても丁寧にメンテナンスされていて、造りもしっかりしている。家賃相場も安く、広くなった間取りは本当にくつろげる。まず、食事をする部屋と寝室とが一人暮らし史上初めて分離した。今まで、ぎゅぎゅっと押し込められていた家具たちが、それぞれの場に収まった。収納もたっぷり。料理する回数も多少増えた。休日も家でいろいろするのが楽しい。なんかとても「住まい」らしい気がする。
 自分だけの空間づくりは、本当に夢中になってしまうもので、カーテンの色や素材、照明器具のセレクトや家具のレイアウト。イメージするライフスタイルに合わせて、一つ一つお気に入りの物たちを集めていく感覚。高価な物は必要ないけれど、小物や植物一つを取っても、お気に入りの物たちに囲まれている暮らしはとても心地よく、気持ちをより豊かにしてくれる。窓からの眺めもその一つであるし、入ってくる日射しや風もお気に入りの生活の一部になっている。
 こらから先も、ずっと「住まい」についてはこだわっていきたいと思う。一人一人の価値観は違うが、それぞれに思いがあれば、<まち>や<都市>は味のあるものとして、まとまっていくのではないかと思っている。というか、そうあってほしいと願う。


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