神楽坂建築塾 第五期 修了制作

あたりまえに住みつづける家
−50年の記憶−

神楽坂建築塾第五期塾生 加藤雅子

目次

1.はじめに

6.葬式

2.建物の概要

7.周辺環境について

3.家族の生活について

8.改装履歴について

4.内部について

9.家の記憶

5.外部について

10.街の記憶

  

1.はじめに

 祖母の家は50年ほど前に建てられた、木造の日本家屋である。お座敷、縁側のある、私自身は住んだことはないが、とても懐かしさをかんじる家。もともと診療所が併設された住居である。
 正月には祖母を中心に親戚が集まる。祖母、子、孫、ひ孫、4世代に渡り、この家は家族をつないでいる。

 現代の住まいは長く住みつづけられることなく建替えられる。家が現在の生活にあわなくなるなどの物理的な要因、機能的で新しいものがよいとされるなどの意識的な要因、さまざまな理由はあるが、家の寿命はこんなにも短いものなのだろうか。
 周辺では再開発が進み、高層マンションがつぎつぎに建ちつづけている。この家はこれからどうなるのだろうか。

 この家がこれまでどのように住まわれてきたのかを調査し、住まいとは何か考えてみようと思う。

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2.建物の概要

 この家は昭和25年に建てられた、木造の住宅である。
 この家に住んでいた人から、この家についてのヒアリングをしてみた。
 当時は父母(祖父母)と子供5人の計7人で暮らしていた。子供が独立し、父が亡くなり、その後は母が一人で住み続けていた。現在は子供が戻り、3世帯が暮らしている。


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3.家族の生活について

 診療所が併用され、仕事が忙しかったため、家族の生活は診療所の仕事が中心であった。

 毎日の生活をこなすのが精一杯で、ゆとりのある時間はなかったが、家族としてまとまって生活することがあたりまえに生活していた。

 両親は仕事のため、学校のお弁当の用意や、夜の食事や片付けは子供の仕事であった。また父だけは夕方食事をとり、夜の診療をしていたため、休日以外家族が一緒に食事をとることはなかった。家族が多かったので、全員が集まっての団らんはほとんどなかった。和室にテレビがあり、ここに家族が集まり雑談したり、遊んだりしてコミュニケーションをはかっていた。
 年に数回は家族で映画に行ったり、夏は海水浴に行くことはあった。年末年始は家族で過ごし、親類の家に遊びに行った。

▲スイッチプレート

 診療所には受付の人、看護婦さんが来ていたが、それでも人手が足りず、忙しい時は夜遅くまでやっていた。
 受付や、薬を包む仕事、事務仕事など、忙しいときは家族が手伝っていた。薬局で学校の宿題をすることもあった。
 現在のように救急病院が少なかったため、休日や夜中も急患が来ることもあり、家族で出かける予定をしていても出かけられなかったり、夜中に起こされることもあった。

 両親の働く姿を毎日みて、忙しいのはわかっているので子供は家の手伝いを積極的にやっていた。

▲洗面

▲待合室

▲待合室

▲薬局のくもりガラス

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4.内部について

炊事・食堂
 食事を作るところと食べるところが一部屋で便利だったが、あくまでも実用的な作りだった。時々、大きな机で卓球をして遊んだ。

和室
 掘りごたつがあり、家族団らんの場、父母の就寝の場であった。朝日がさしこみ朝は暖かいが、冬は寒く、湿気も多かった。
 親戚が来た時はここでもてなした。

縁側
 縁側は、籐の椅子を置いてのんびりできた。庭に草花を植え、縁側から眺めた。
 夏は涼しい風が入り風の通り道になったが、冬はすきま風が入り寒かった。

座敷
 座敷は客間として、普段は使わず、お正月に親類が来た時や知り合いが泊まる時使用していた。襖を開ければ隣の部屋と2部屋続き間で使用することができ、暮らしの場面にあわせて可変的に空間を使うことができる。
 床の間には、季節にあわせて掛け軸やお花、人形などが飾られた。


座敷▲


▲診療所の照明

応接室
 来客があったときは、ここに通した。応接セット、ステレオセット、ピアノが置かれていた。

診療所
 診察室、処置室で診察が行われた。薬の調合をする薬局、患者さんの待合室があった。
 また診療所に隣接してレントゲン室(暗室)があり、ここで患者さんのレントゲンを撮って現像していた。

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5.外部について


 庭に花を植えていた。食べたビワの種をまいて、芽が出て大きくなり、たくさんの実をつけた。大きくなりすぎたので数年前に切ったら、今度は柿の種から芽が出て、今は毎年たくさんの実をつけている。
 駐車場が出来たことで庭が狭くなってしまった。


庭のビワの木▲


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6.葬式

 父の葬式は家で行われた。診療所専用の玄関を使用でき、また多くの人が集まることのできる和室があった。
 家は日常住むだけではなく、冠婚葬祭にも使われる可変性のあるものだった。


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7.周辺環境について

 当時は周辺にも原っぱがあり遊んだ。以前は都電が走っていた。2Fからは東京タワーがよく見えた。家の前の通りは月1回縁日があり、多い時は道の両側に出店が並んでいた。首都高や道路拡張に伴い、周りにビルが増え、東京タワーも見えなくなり、縁日もなくなった。朝は貝売り、夕方は豆腐屋が売りに来ていた。夏には金魚売りが来ていた。


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8.改装履歴について

 父が亡くなり、数年後に診療所の一部を改装した。日当たりのよい診察室が母の生活の中心となった。
 現在は母と子供、3世帯が住み、母の体に配慮し、これからも住み続けられるよう改装を行った。


トイレのタンク▲


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9.家の記憶

 祖母はあたりまえのようにこの家に住んでいる。この行為は現代ではなんだかめずらしくも思える。
 子供が独立し、祖父がなくなってもこの家を離れることは考えなかったし、改装しながらこの家に住み続けることを選択した。

 この家は診療所が併用されており、診療所の仕事を中心に家族の暮らしが営まれ、この家が生活の場であった。職住接近の家は子供が働く親の姿を見ながら育つ。この環境は、子供にとって家庭とは違う親の存在を感じたり、家族以外の人とも接することにより、仕事や社会に対する価値観へも影響するような気がする。

 また、この家に限らず日本家屋では、季節とともに暮らしを楽しむ要素が多くみられる。和室の床の間では季節に合わせて、花を生けたり掛け軸を飾る。縁側は、家の中と外をつなぐ場として、自然を身近で楽しむことができる。現代の住まいと比べて、全てが快適な暮らしではないが、生活を楽しむ豊かさがある。

 そこでの暮らしは、人の記憶の中に生きつづけ、またその記憶は家に蓄積されていく。

 家に住みつづけるためには、耐久性や、将来の可変性、あきのこないデザインといったハード面も大切だが、生活の場としての住まいかどうか、そこに記憶を残せるかが問題であると思う。例えば建物の性能や機能性を追求した建物で、便利で快適な暮らしが手に入っても、またデザイン性のある建物でモデルハウスのような生活感のない暮らしをしていても、住まいという箱があるだけでは記憶は残せないのではないか。

 この家があることにより記憶は薄れることがない。また、診療所をしていた頃を知らない私でも診療所の記憶を感じることができた。この家は蓄積された記憶により、これからも家族を結びつけるだろう。家とは本来そうやって住み継がれていくものだと思う。

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10.街の記憶

 家は人の記憶と共に、その地の風土の中で住まいの形を次世代に引継いでいくものである。それにより街の記憶も形成されていくものだと思う。私は今ある建物をなるべく住み継いでいきたいと思っている。このままのサイクルで街が新しくなれば、街の記憶はほとんど失われてしまう気がする。残すという選択もあたりまえのようにできる社会にしていきたい。

 最近では建物を再生させる、リノベーションという考え方も受入れられつつある。リノベーションは環境問題や予算的な視点からだけではなく、どのように記憶を受け継ぎ再生していくかを大切にしていきたいと思う。


庭からの眺め。現在周辺では再開発が進み、42階建の超高層建設中▲

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