武蔵野美術大学通信教育●建築論
第一章関連 まちを歩きまちを描く

今野アートサロン
1928(昭和3)
設計:堀越三郎

鈴木喜一画

 

いま描き残す横浜の近代建築 一九九四夏/秋

●汗をふきふきヨコハマ

 一九九四年七月三日の日曜日。午前十時、桜木町駅の改札口に集まったのは総勢十人。近代建築スケッチグループである。歩きやすそうなズックを履いて、スケッチブックを抱えて張り切っている。今日は横浜本町通りを中心に明治・大正・昭和初期の近代建築を巡り歩きながらスケッチをしてみよう、ということなのである。横浜の空は大快晴であるが、猛烈に暑くなりそうな勢いである。 幕末にいち早く開港し、外国人居留地として西洋文明を受容した港町ヨコハマ。ここには数々の貴重な近代洋風建築が残っている。開港記念会館、県立博物館、横浜税関、横浜海岸教会、赤煉瓦倉庫などの建築を見学しながら、建築と歴史とのかかわりあいや古い建築物の保存再生問題などについて考えてみよう。気にいった建築があったら、そこで適宜スケッチをして、最終的にみんなバラバラになったら理想的と思っているのが抜け駆け名人と言われている私の思惑なのであるが……。
 地元に住む南雲ゆかさんの案内で、休日閉店の銀行が居並ぶ本町通りを、ご一行さんという感じで、汗をふきふき歩いていく。この時点で、すでに摂氏三十六度という暑さ。みなさん集合した時の元気はどこへやら、スケッチどころではないよな、という顔つきになってきた。
 馬車道。日本火災横浜ビルの一階ロビーに入り込んでひと涼み。このビルは、大正十一年、横浜生まれでドイツに学んだ建築家、矢部又吉によって設計されたものであるが、一九八六年の春から三年をかけて、多くの人の知恵と努力により、現在のような形になった。これにあたったのが日建設計。竣工は一九八九年。この建築の評価はみんな様々であるようだ。
 かつて、《村松貞次郎先生と語る会》が銀座の東京建築士会で開かれたことがあった。村松先生は日本火災横浜ビル保存調査委員会の顧問として、このビルに相当のめり込んでいたようである。顧問というより実際の建築家といえるかもしれないと思ったほどだった。工事中の細かなスライドを見せて頂きながら、保存・活用のいろんないきさつを聞いていたので、その話が思い出される。「建築の保存というのは、残す行為だけでなく、創る行為なのだ、新しい街を創っていくためのデザインなのだ」という言葉が新鮮な印象として残っている。 みなさんロビーで何やらこの建築について考えているようであるが、ここで中島理慧さんの説明に耳を傾けてみよう。中島さんは美大通信教育部の現役の学生である。
「外観のファサードを保存した上に、新宿から持ってきたようなガラス張りのビルがそのまま乗っかったような形をしていて、横浜市民からは『なんじゃこりゃ』との誉れが高いビルである。復原はせにゃならんし、この建築を現役として使う上での諸般の事情はあるしで、結果のよしあしはともかく、現代人の内面における苦しまぎれの積極的な一到達点を体現していて興味深い。伝統への愛と、現代の実用と折り合うことの……」
 うーん……中島さん、言ってくれます。話が長く続きそうなので、
「ナカジマさん、とにかく食事にしましょうか」ということになり、このビルの九階のレストランで、隣接の神奈川県立博物館のドームを鑑賞しながら昼食となった。元横浜正金銀行のこの石造博物館は明治建築界の巨頭の一人、妻木頼黄の代表作で、明治三十七年に建築されたものである。関東大震災で失われたドームは、昭和四十二年、県立博物館となる時に再建されている。横浜国立大学の吉田鋼市氏によって「エースのドーム」という愛称がついている。妻木といえば、「ハマの赤レンガ」として市民に親しまれている新港埠頭煉瓦倉庫は、彼の率いる大蔵省臨時建築部が直営でつくっている。
「だれかハマの赤レンガを描きに行く人はいませんか」
「………」
 食後のコーヒーもしっかり飲んで、さてスケッチにと思うのだが、レストランは冷房が効いていて、みなさんの腰は相当に重い。
 その重たい腰をあげて、次は横浜市開港記念会館へ。福田重義のコンペ当選案を基本にして、横浜市技師の山田七五郎、佐藤四郎、木村龍雄らが実施設計をしたものである。開港五十周年を記念し、市民の基金によってつくられた横浜のシンボル。大正六年の竣工で、前身の町会所時計台をしのばせる塔は通称「ジャック」と言われて親しまれている。この名建築の一階ホールでは「日本肝臓病患者の会」主催のシンポジウム中であった。やや肝臓が弱っている私は、人ごととは思えず、とりあえず紛れこんで対処療法や患者の心得などを聞いていた。しばらくして出てきたら受付嬢に、
「スズキさんですか」と呼びとめられ、メモを渡された。そのメモを読むと、「ここからあなたの好きな自由行動としますので、夕方六時、山下公園の氷川丸付近に集結して下さい。厳守!です」と書いてある。私が抜け駆けする前に、全員に先を越されてしまった。

 

●今野アートサロン

 横浜には何回か来て、もちろんスケッチもしているのだが、今日は何となくアレを描こうと決めている建築があった。仲間のみなさんにメインの建築は譲って、私は馬車道方面に引き返した。
 お目当ては本町通りと弁天通りが鋭角的に交差する、そのコーナーに建っている宇徳ビル別館。品川の原美術館や銀座の服部時計店を設計した渡辺仁の設計で、昭和四年に大林組が施工した建築である。三角地に立つコンクリート造四階建の小さなビルであるが、今日は光も強いし、あの曲線のメリハリのある壁面は輝いているにちがいない。
 行きつ戻りつしてみるものの、宇徳ビル別館はナイ。そんなはずはナイと探すものの、やっぱりナイ。
 現在、……駐車場……となっている。
 大切な人がどこか遠くに行ってしまったような感じである。肩を落として弁天通りをとぼとぼ歩いて馬車道に出たところで、コンクリート造三階建てのビルに呼びとめられた。
「おいおい、俺だって捨てたもんじゃないぞ」と語りかけてくる。
 お互いに立ち尽くしてじっと眺めあう。この建物は、宇徳ビル別館とほぼ同世代、つまり昭和初期の商店建築といって間違いないだろう。ひょっとしたら宇徳ビルの親友だったのかもしれない。ロマネスク風でやはり小規模なビルであるが密度の濃いデザインである。背後には例の日本火災横浜ビルが立っているが、描いてみるなら文句なくこちらである。
 私の立ち直りは早かった。人気のあまりない暑い日曜日の午後、歩道にどかっと腰をおろしてスケッチの体勢に入る。……汗が流れる。通行人は「おーおー、この暑いのに……」と言って立ち去って行くのだが、私はといえば、いったん絵の中に入りこんでしまったら暑さも寒さもあまり気にならない。暑さも寒さも道連れにするタイプなのである。……描き続ける。所要時間は百九分。
 描き終わって、店のシャッターが半分開いていたのでそっと入ってみた。たまたまオーナーがいたので、出来立てのスケッチを見せ、
「すみませんが、この店のスタンプはありませんか。ここに捺したいのですが……」
「これで、いいんですか」と出してきてくれたスタンプを借りてスケッチに捺す。今野アートサロン。スケッチ終了後、現場でのなんらかの記念を絵に付加するのは先の章にも紹介したが、私のクセである。
 一階は喫茶店になっているが、今日は休日閉業である。たまたま店でくつろいでいたオーナーの今野邦夫さんと世間話となった。初対面だが相性が良かったのか、「暑いからまあビールでも飲もうや」という感じになってしまい、彼の話に耳を傾ける。
「この建物は昭和三年、堀越三郎の設計、庄司組の施工によって建てられたものですよ。最初は大宝堂という宝飾店だったから、それにふさわしい気品と華やかさがあるんだろうねえ」と気楽に話してくれる。インテリアは昭和初期のモダニズムといった感じで渋い落ち着きがあり、天井も高いのでさっぱりと居心地が良いのである。現在、一階と二階を今野さんが借りていて、三階は画家が住んでいるらしい。
 今野さんはお酒が好きそうである。それもウィスキーかブランデーといったところ。彼は音楽も好きである。とくにモダンジャズが好きで月一回はこの一階のサロンでセッションをやっているという。喫茶店は、夜になるとパブか音楽ホールになる。さらに山も好きだという。日本の山はずいぶん踏破したらしい。トレッキング感覚で空気を体に感じてのんびり歩くのが好きだという。では、ということでヒマラヤの話をすると「……行きたいなあ」と夢見心地となり、店をやめて今にも飛んで行ってしまいそうである。
 おっと、時間が六時間際になっている。山下公園でみんなが待っているはずだ。厳守!の一言が重たい。ここでいったん話を断ち切らなければならない。「今野さん、すみませんが、これから十人位、ここに呼んできていいですか。ぼくの仲間がそれぞれスケッチをしているんですが、ここで講評会をしたいんです。お休みのところ申し訳ありませんが……」
「えっ、……まあ、どうぞ、どうぞ」
 夕暮れの横浜はまだ暑かった。あまり遅刻するわけにもいかず、早足で歩いたり、時折走ったりして山下公園に何とかたどり着いた。それでも十五分ほど遅れた。みなさんはやはり勢揃いで、「……やっぱり遅れたな」と言いたそうな沈黙の視線である。ここで間をおかずに私は、
「すまんすまん、みなさんスケッチしましたか」
「………」(何言ってるの的軽蔑視線は消えない)
「今からおもしろいところに行きますので付いて来て下さい」
 一同をけむに巻き、あれよあれよという間に今野アートサロンに戻って来た。

 

●講評会

 十人ともこの暑いのにしっかりスケッチをしていたのである。私と今野アートサロンのような出会いが十人それぞれに生まれたはずである。講評会ということではなく、一人一人にスケッチを見せてもらいながら、その出来立てのストーリーを話してもらう。絵を描き終わったあとは、みんなスッキリして、心うれしいものなのである。飲み物はビールまたはジンジャーエール。ここからは今野さん、気の毒ですが休日返上となって営業開始。
 まず中島さんは、A・レイモンド設計のエリスマン邸を描いた。「……わたしはスコップがほしい」と少し謙遜しながら話し始めましたが「わたしの父方の祖母は現在九十歳ですが、住んでいた家がどういうわけか、レイモンドの設計だと伝え聞いていまして、……しかし確証がなかった。だが、このエリスマン邸の中にあった楽譜用の引き出しの把手のデザインが祖母宅にあった小さい引き出しのそれと全く同じなのに気づいた! しかも、その小引き出しは数年前に手放してしまったあー。わ、わたしは頭の中で叫んだあー、!×△☆×△☆!」
「ナ、ナカジマさん、とにかくビールを飲んで下さい」
 という具合の人も、しみじみと語る方もいて、十人のストーリーが終わった。みなさんの力作を見て、すっかり上機嫌の今野さんが「二階はギャラリーになっています」というので、ドヤドヤと見学に行き、いい空間だなあ、ちょうどいい広さだなあ、横浜のスケッチ展をここでやりましょう、という意見がだれかれとなく生まれ、『近代建築史への旅スケッチ展・4』の企画が、超特急で成立してしまった。
 今野さんは最後に「今度のスケッチ展はおもしろそうだね。こんな雰囲気で始まったのは初めてだなあ、……楽しみにしています」と言った。
 今日は七月三日。展覧会は晩秋と決まった。

 

●いま描き残す横浜の近代建築

 盛り上がった余韻の覚めぬまに、さっそく横浜スケッチ展の開催趣旨をつくってみた。当事者十人のほかに、いったいどれくらいの人が参加してくれるだろうか。その内容は以下の通りである。
 明治維新の一足前、一八五九年に開港した港町ヨコハマ。そこには、進取 の気性に富んだ大工棟梁や、西洋の技術を吸収した若い建築家たちがつくり上げた近代建築が今も数多く残っています。外国人居留地があったことも影響して、独特の国際性を帯びたこの街は、当時の建築が現役として使われて いたり、古い建物と最新機能とを組み合わせた「ファサード保存」の試みなど、建築の保存再生という視点でも注目される街です。
 しかしその一方、ここでも様々な理由から取り壊されていく例も多く、いま描き残しておかなければ、と思える建築も少なくありません。今回の展覧会場である《今野アートサロン》(昭和三年、堀越建築事務所、庄司組)もその一つといえそうです。
 《近代建築史への旅・スケッチ展》の企画もいよいよ現地で、その建築に入り込んで開催するということになりました。「横浜」というテーマを決めてのスケッチ展ですが、ぜひ参加してみて下さい。
 この企画に賛同して参加してくれたのは三十八名。
 地元横浜と関東を中心に参加者を募ったが、中には高知、長野、群馬、静岡からの応募者もあった。私は開催趣旨をつくって、さっさと海外取材旅行に出かけてしまったのでわからないが、以後、参加者はそれぞれ横浜を舞台にスケッチを重ね、独自のヨコハマ・ストーリーをつくることになったはずである。 同年十一月二十一日(月)〜二十七日(日)の七日間、今野アートサロンにて展覧会は実施された。脱落者はなく三十八のスケッチが展示されたが、一番多かったのが、横浜開港記念会館を描いた人で七名、ついで神奈川県立博物館、山手聖公会であった。スケッチにはタイトルのほかに、描いた時の感想が添えられていて現場での臨場感が伝わってくる。

そのスケッチと短文をいくつか紹介して、ここに横浜展を再現してみよう。


鈴木喜一

横浜新港埠頭倉庫/1911(明治44)/妻木頼黄

横浜市中区本町6丁目は、みなとみらい21の大プロジェクトに近接した高度利用地区で今、再開発事業が進行中である。そんな中に鉄骨で補強され、支えられた近代建築の一部が、遠望される超高層ビル・横浜ランドマークタワーと際立った対比を見せている。歴史的建造物の保存と都市再開発は永遠のテーゼである。この事業が完成した時には、どのように生かされているのだろうか、そんな事を思いながらとにかくシンボリックな風景に魅せられてスケッチブックを広げた次第である。

中尾明長

横浜銀行本店/1929(昭和4)/設計:西村好時

つい先頃まで完全な姿で建っていた新古典主義的な建造物が、いま血祭りに挙げられている。ミラーガラス張りの現代建築の一部にでもなるのだろうか。歴史と現代との「共生」とかいう名の今風のイデオロギーによってここまで変りはててしまっている。「お頭」だけ残して何が面白いのか知らぬが、尊い人体を人間が勝手なイデオロギーでもて遊んでいるような、そんな感慨にとりつかれてしまった。

白鳥健二

横浜銀行本店

ヨコハマに吹きわたる冷気は、冬の訪れを告げていた。始まりかけた夕映えに、街路樹や行き交う車が染まっていく。逆光に遠い時を刻んで立つ建物は、まるで生きているようだ。そしていまも確かに呼吸している。鉛筆を走らせていくうちに、ひとつ、ひとつ、美しさをみつけた。何度となく迷妄と逡巡にためらいながら、別次元の空間と時間のなかで描き続けた。今、私は走り出した列車の中にいる。プルシャンブルーの帳のおりた都会の夜は、スパンコールをちりばめて明滅している。窓わくに断ち切られたガラスのキャンバスに、私がいる。

飯島美楠子

横浜開港記念会館

何の変哲もない路地で切り取ってしまった神奈川県立博物館の「部分」である。たまたまそこに路地があったから「部分」を描いたのではなく、少なからずモダニズム建築の洗礼を受け、今でもドップリと浸かってしまっているぼくにとって、様式主義の権化であるこの建物を史観や観念に邪魔をされずに描くことはこの部分までが限度だったからに過ぎない。

瀧田正美

神奈川県立歴史博物館

私にとって、横浜の洋館といえばこの山手資料館。久しぶりに訪れた山手資料館はきれいに塗りかえられていたものの、愛らしい姿で建っていました。オレンジ色の屋根、ペパーミントグリーンの下見板、すこし頭でっかちなフォルム…。となりのレストラン山手十番館の庭からスケッチ……。

湯舟直子

山手資料館/1909(明治42)

外国人居留地時代の息吹を残す山手に建つ、えの木てい。 オーナーの自宅を利用したこの洋館は、1階のリビングとティーラウンジを開放し、2階部分は住居として使われているため、友達の家を訪ねたようなアットホームな雰囲気を味わえるのが魅力の一つです。店内のすべての家具がアンティーク、中には150年以上前につくられたものもあります。
入れたての紅茶の香りとアーチ型の上げ下げ窓からの鮮やかな木々の緑をながめながらホッと一息。山手散策の締めくくりはえの木ていでゆったりとした午後の一時を過ごすというのが、すっかり私の定番となりました。

橋本三幸

えの木てい/1927(昭和2)/宮内建築事務所

私:「山下公園の、いえ山手公園のインターナショナル・テニスクラブまでお願いします」
タクシーの運転手:「この雨の中、テニスするの?」
私:「いえ、スケッチしに。そこの受付の建物、素敵なんですよ」
運転手:「いいねえ。実はぼくも昔、絵をやりたくてねえ。戦中戦後で紙もなかったし、親にも反対されて、それっきりだな」
私:「今からでもお仕事のあいまにおやりになったら?」
運転手:「いやいや、休憩になったら寝ちゃうよ」
今、紙もある。鉛筆も、絵の具も、筆もある。誰も反対しない。何という幸せ。雨は降っているけど、絵は不出来だけど、とても贅沢な時間。
一週間後。快晴。木の葉散る中、再び贅沢な時間。これがその時のスケッチ。春には桜がきれいとのこと。また行ってみよう。

森暁美

旧山手ブラフ68番館/1933(昭和8)

黒ずんだコンクリートの外壁に白いタイルの装飾がすっきりしていて気に入りました。また窓をかこむ細長いアーチが建物正面に7つあり、そのアーチの上部のタイルの貼りかたにアクセントを付けた所が、さりげなくてカッコイイです。見た目はほとんどモノトーンで、静かなたたずまいですが、「私も近代建築である!」と「富國ビル」は言っているように感じました。

芳賀輝男

富国ビル/1920(大正9)


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