第1期(1999年度)神楽坂建築塾講義録

第18回講座
(フィールドワーク)

テーマ「民家から何を学ぶか」

講師:戸張公之助氏(伝統技法研究会代表理事)・伊郷吉信氏(伝統技法研究会副理事)
日時:2000年2月13日(日) 10時〜 場所:川崎市立日本民家園

【とばりこうのすけ氏略歴】
1928 年 東京都深川に生まれる
1950 年 中央大学経済学部中退
1964 年 戸張建築設計室を開設
1976 年 設計協同組合建築連合設立・同組合専務理事
1992 年 伝統技法研究会を設立。現在  伝統技法研究会代表理事 一級建築士

1998年から99年にかけて、連続講座「民家に学ぶ」の講師をつとめる。
歴史・民俗・経済など幅広い視点から民家へのアプローチを行っている。
【※2003年2月5日、逝去されました】

【いごうよしのぶ氏略歴】
1953 年 東京都文京区生まれ 
77年 東京理科大建築学科卒
91年 パンデコン建築設計研究所、群設計同人を経て自由建築研究所設立
91〜95 地域紙「坂まち通信」編集人
92 年 伝統技法研究会設立
96年 文京区歴史的建物の活用を考える会設立 文京区安田邸保存
98年〜 文京区文化財調査委員
現在 自由建築研究所代表 伝統技法研究会副理事日本建築学会会員 日本民俗建築学会会員 R日本ナショナルトラスト会員 東京を描く市民の会理事
【著書】『歴史的遺産の保存・活用とまちづくり』学芸出版社(共著)1997 『和風デザイン図鑑』(共著)建築知識 1997 

 第18回講座は、川崎市立日本民家園で、伝統技法研究会の戸張公之助氏・伊郷吉信氏のお二人を講師に、それぞれのグループに別れて屋外に展示してある民家を見学しました。ここではテープの再録を原則としながらも、それぞれの民家の具体的な説明は省き、民家を見学したり民家を学ぶうえで大切なことがらに絞ってまとめてあります。個別なことがらや解説については、民家園発行のカタログ(1,000円)が有用な資料となりますし、何よりもご自身で民家園や地元に現存する民家を実際に見学されることをお奨めします。


戸張公之助氏グループ随行記録

民家の成立と年代の特定

 民家は、寺社などに比べて棟札が少ない。創建年代を裏付ける史料のない例が多い。棟札をつくるようになるのは江戸後期からです。ここにある旧北村家住宅(1687年・重要文化財)は、解体時にホゾに墨書が発見され、創建年代と大工名が判りました。東日本で、年代の確認された民家としては、茨城県の椎名家住宅に次いで古く、たいへんに貴重な存在です。

 民家が歴史的にどのように発展してきたのか、それを知るためには、年代のはっきりしている建物と丹念に比較することで編年が可能になります。その場合民家には地域性があるので、生活環境を同じくする地域・地方のなかの民家と比較検討することが大切で、遠いところのものを比較の対象にしても新旧は判りません。

 民家のことを研究者は「近世民家」と呼んでいるように、近世に入って成立します。成立の背景にはいろいろの要因がありますが、その一つに、専門職・大工が民家の普請に参加してきたことが挙げられます。

 それまでの住まいは、大工の手の入らない掘立て柱の作りで、住み手と集落の人々の助け合いで行われてきました。物差しを使わないアバウトな人体寸法で、柱の通りも悪く、従って「通し貫」も入らないものでした。

 ただし例外もあります。例えば歴史も長く、文化の進んでいた近畿圏の民家は、関東のそれに比べて百年くらい進んでいたと考えられます。室町末期には近世民家が始まっています。現存している兵庫県皆河町の古井家住宅・神戸市の箱木家住宅などがそれです。

 このように、社会の不均等な発展のなかで、技術の進歩もかなりの地域格差がありました。

 


▲旧北村家住宅

 

 

 

 

 

 

箱木家……「ぜひとも見ておきたい、日本最古の民家」

 切妻の民家というのは、白川郷などの合掌造りを別にすれば、全国的に非常に少なく、ここに移築されている旧広瀬家住宅はその珍しい例の一つです。山梨県の大菩薩峠の麓にありました。

 明治に入って建てられた近代民家が一棟展示されています。旧原家住宅です。川崎市内の府中街道沿いにありました。日本の木工事の技術は、幕末から明治にかけてピークとなります。腕のいい大工さんが全国的に層厚く形成された時代です。また明治になると刀鍛冶が転身して大工道具を作る者が現れ、優れた道具も出てきました。原家はそんな時代に欅材の総普請で丁寧につくられた住まいです。

 一般に民家は、自分が生活している周囲環境で容易に入手できる材料で作られてきました。地域ごとに異なる風土は、民家の技法にも反映して、例えば使用木材も地域地域で特徴が見られます。江戸時代の諸規制のなかで、使用木材に規制のあったことも無視できません。檜材は全国的に禁じられていましたが、その他にも、例えば会津藩では7種類の木を「七木」と称して伐ることを禁じていました。建物の規模や造りにも規制がありました。

 


▲旧広瀬家住宅

民家の構造の変化

 民家にもいろいろあります。農民の家は農家、城下町や宿場町に建つのは町家。町家の中には商家や職人さんの家などあり、また漁師の家は漁家というように、民家といっても職業によっていくつもあります。だが共通していえるのは、作業空間があるということです。民家は居住空間と作業空間が一緒になっている。

 貫の断面は古いものほど太い。それがだんだん細くなってきました。

 大きな差鴨居(さしがもい)を見てほしい。古くは一間(けん)ずつ柱が立っていました。その柱を抜きたいがために差し物を入れる。これは民家の特色です。差鴨居は1600年代の後半には登場していますが、広く普及するのは幕末からです。差鴨居のように大きな断面の材料が、何本も壁から柱に刺さってくると柱が傷つく。だから柱も太くならざるをえない。そうして大黒柱が生まれたのです。もうひとつ、民家に床の間が入ってきたのも同時期。床の間をつくってそこで通過儀礼等の年中行事をする。その時は人が集まる、二間続きで使おうとすると柱がじゃまになる、差鴨居が増える……という一連の流れだったのです。

 礎石に柱が乗っています。その足元にある横材は土台ではなく地覆(じふく)といいます。土台とは柱を載せるものですが、地覆は柱と柱の間に入って、壁の見切を成すものです。

 小屋組みをスケッチすることが民家理解の最良の道です。民家の造りの中で「竹のカゴ状の下地・草葺きの屋根」は世界の中でも最も優れた構造といえるでしょう。カゴ構造は強いのです。合掌の家づくりは春の雪解け直後、田植の前にやります。また、大きい家でも一日で葺くのが原則でした。集落総出でなければできません。来年はどこどこ、と決まっていました。

 明治までは、玄関は民家ではつくってはいけなかったことも覚えておいてください。

 ここの民家のいくつかでは、床の間の原形の「押板(おしいた)」を見ることが出来ます。板張りの少しへこんだ空間で、古いものでは柱幅だけの奥行きのものがあります。銀閣寺の東求堂に残っています。用途としては祭壇のようなもので、だんだん成長して、現在の床の間になったようです。

 貫について。桁行の貫は上がり、梁間のそれは下がっています。その上げ下げの段差は、実は根太の寸法なのです。つまり下の貫「地貫」は板掛けを兼ねている。梁方向の貫は根太掛けになっている。古い民家で、増改築を繰り返していて原形がわからなくなった場合でも、この貫を見ることで方向を推測することができるのです。もっとも、解体すれば番付けが出てきますが。番付けも時代で変化していますね。江戸時代は「いろは……」と「壱、弐、参、四……」の「組み合わせ番付」でしたが、中世ではぐるりと回る「回り番付」もありました。番付けは、そもそも寺社を解体し再び修理するときに間違えないようにする工夫でした。

 


▲旧山田家住宅……屋根頂部に刺さる横木は笄(こうがい)と呼ばれる。女性のかんざしに似ているから。

茅葺き屋根のメカニズム

 ところで茅屋根はなぜ雨が漏らないのでしょう。実は茅葺き屋根は現代の科学で解析するととても合理的なシステムであることがわかっています。

 表面張力と流れる力がからみあい、細い断面がいくつも続き、適度な隙間があることが重要なのです。そして適度な通気が確保される。それは、古い時代に何度も試行錯誤を重ねて、完成度の高い姿になってきたということです。最近、「高気密高断熱」といわれてきましたが、人間が、外の気候変化を知らずに、一年中同じ環境で暮らすのが本当に正しいことなのでしょうか。

 なお、民家には押入れがないことに気づくでしょう。物がなかった、蓄積できなかったのです。武士の家でも、奥さんは三枚しか着物がなかった、と書いている資料があります。貧困は、大変なものでした。つくってもつくっても年貢を納めなければならない、連帯保証の義務もあった時代です。建築的には城は面白いかもしれないが、城を造るときは、村をつぶし、抵抗する村民を斬殺して庶民を普請に動員したこともあったのです。その立場から見たら、たまったものではなかったでしょう。

 江戸開府後、一国一城制が敷かれ、城を造って武士を城下町に集めました。たくさんの職人が求められました。続いて寺町がつくられた。それが一段落すると「バブルがはじけ」て、大工さんが暇になる。ちょうど江戸開府から百年たったそのころ、民家の技法が急速に発達したわけです。

 これからの生き方を考えていく上でも、こうして古いものから学ぶことはたくさんあると思います。民家を見ていて思うのは、「手を抜く」ということがなかったということです。限度の中で精一杯やっていた。仕事の誠実さが、そこここに現れているということを皆さんに知っていただきたいと思います。

 


伊郷吉信氏グループ随行記録

 いつも僕は「人・時・場・金」を考えるようにしている。「誰が」「いつ」「どこに」と、「そのお金はどうしたのか」という四点だ。

 民家を見る時の視点としては、次の四点を押さえてほしい。「生業が何であったのか」つまりどんな人がこの家を建てたのかという点だ。「時代背景を考える」こと、材料工法は何であったか。「ロケーションを考える」こと。町中かか、平地か、山岳なのか……。その場所によって形は変わってくる。常に民家を見るときに、それらの視点を持っていて欲しい。そして何より大切なことは「この民家の中で、どんな生活が営まれていたのか」ということだ。想像しつつ見学してほしい。

 民家を見るときには礼儀がある。リュックなどで壁をこするから大きな荷物は持ち歩かない。敷居は踏まない。それから、この民家園には花火の火で燃えてしまった家がある。幸い復旧できたが今も梁は火膨れしている。茅葺き屋根は火に弱い。見学をする時はタバコは厳禁だ。

 木造建築では御法度とされることが三つある。

 「逆さ柱」これは木が生えていた向きと逆さに柱として使うこと。「行き合い継ぎ」とは二本の木を「元口と元口」「末口と末口」同士で継いでしまうこと。そして「木違い」は別種の材木を継いで使うこと。同材で継ぐのが基本ということだ。

 防火のための漆喰を塗る技法は各所で見られた。塗り厚によって、3寸(9センチ)以下のものは「塗り家造り」それ以上のものは「蔵造り」と分類している。関西系は塗り家が多い。

 

民家のリサイクルに学ぼう 

[三澤家住宅にて]

 信州で分布している石置板葺きは、比較的早く痛むが、あの一枚一枚は長いのでひっくり返したり差し替えたりして使う。

 道祖神などの石塔にも注意してほしい。民俗・習俗の知識は、民家を学ぶ上でも大切だ。道祖神は外へ旅立つ時の安全を祈願し、また悪霊の浸入を防ぐ「結界」でもあったのだろう。

 民家の生活は、すべてが完全にリサイクルであった。トイレはそのまま肥料になった。煮炊きものの後も肥料にした。百パーセントだったといっていい。人間の文化は後退したというべきか。

 こんなエピソードが秩父にある。
 昔は風呂を持つ家は限られていた。ある時、村一番のきたないお婆さんに風呂に入って貰おうと晩飯を御馳走して招待した。風呂で落とす垢は、貴重な肥料だったからだ。ただお婆さんが入った後では家族は汚くて入れない、だから最後に入ってもらった。さあ、さぞや汚れた湯になっただろうと期待して(?)桶を見るとなんと湯はきれいになっている。そのお婆さんは、みんなの垢を残さずに持ち帰って、自分で肥料に使ってしまった、ということだ。これくらいに、ゴミを出さない、循環型社会だったということだ。なお風呂は普通はなかった。もらい湯ができたくらい。大量の水を沸騰させるのは大変なことだった。蛇口をひねると湯が出てくるわけではなかったから。

 すべてのものを大事にして暮らしていた。生活は半端ではなかった。生きていくのにみんな必死だった。昨日の17回講座で戸張さんもおっしゃっていたが、或る種の「秩序」のようなものが律していたし、儀礼も生活を彩る大事な要素だった。そういうものを忘れて民家を見てはならない。宮本常一を読め、というのはそういう歴史や民俗の知識を備えてはじめて民家の本質がわかる、という意味だろう。


▲旧三澤家住宅

民家の謎を解く楽しみ 

 民家の多くは、土間と床上にまず別れている。原始的な竪穴住居では土間だけだったのが、二間取りになって、それが三間取り・四間取り……と生活の必要に応じて分化していった。寝所としての「ネマ」が奥に置かれて、窓のない真っ暗な閉鎖的空間だった。昔は布団が無く、ネワラを敷いて寝ていたので、敷居が高くて跨いで入った。それが帳台構え(書院の一形式)などにも繋がっていた。

 古い民家ほど閉鎖的だった。防備の意味もあったのだろう。「夏を旨とする」開放的な民家像は、少し時代が下ってから、と思ったほうがいいかもしれない。

 土間はただの土ではない。タタキを「三和土」と標記する。これは、「土・石灰・ニガリ」の三種のものを混ぜて叩くから。

 材の転用・使い回しはどこでも見られる。

 柱の仕上げに注目して欲しい。手斧(ちょうな)には「はまぐり刃」と「直刃」があり、「はまぐり」が古い。はまぐりが並ぶような美しい彫り痕でわかる。室町時代には鉋が出てくる。それはどこまで使われたか? 古式では鉋をかけるのは座敷廻りに限られる。その後、全体が鉋掛けされるようになる。そういうことを知っていると、民家を見て推理するのが格段に楽しくなる。手斧の他にはヨキやマサカリを使ってチョン、チョンと木を削って製材したものだ。

 それから、柱の面(角の削り)にも注目されたい。面が大きくとってあるものほど古い、と思っていい。更に古ければ四角形に製材すらされていない。

 

 

 

 

 

 

 

手斧……材木の加工に使われた道具。飛騨みやがわ考古民俗館に写真あり。また手斧による施工の風景はJMRAのサイトにあり。

民家を見る基本

 屋根・構造(柱・梁)・間取り。この三つが民家を見るポイントである。

 屋根の葺替えは、合掌造りの民家では「結(ゆい)」とよばれる互助組織があって、集落の中で労働力を融通しあって普請をしていた。プロではなかったから、本当はもっとラフな葺き方だったと思う。最近、保存されている民家の屋根は「きれい」になりすぎている気がする。

 まず、茅を降ろして下地の補修をする。すべて木と竹とワラでできている。合掌の扠首(さす)を梁の上に掛けて三角形をつくり、ヤナカという横材をその上に並べる。更に垂木竹を縦に並べる。

 そこに木の針で縫いながら茅を葺いていくのだ。その前にゴザを敷くことも多い。内部から見上げたときに、茅が直接見えずにゴザが見えるのはこの例だ。

 軒づけからスタートして茅を葺き終えると、棟(むね)の納まりにとりかかる。「棟をどう抑えるか、飛ばないようにするか」が最大の課題で、ここが造形のユニークさにもなる。植物を植えて根っこで土を固定する「芝棟」もあれば、「人」型に交差させた材木を置く「千木」もあり、舞妓さんのカンザシのように棒を水平に刺し渡しそこで縄を引っ張る笄「(こうがい)棟」などがある。竹簀子で巻くものも多い。

 通常民家は上屋と下屋で構成されている。「上屋」は扠首を二辺とし上屋梁を下辺とする三角形、そしてそれを両わきから支えるバットレスのような「下屋」である。扠首と上屋梁の交点の真下には本来上屋柱があったのだが、やがてそれが邪魔となり「抜いて」しまいたくなった。そこで「手斧梁(手斧の柄のようにカーブしている材木)」を掛け渡している例もある。一般に柱が一間(けん)ごとに並んでいるタイプが古式である。時代とともに太い梁によって「飛ばして」しまえるようになっていく。

 間取りを考える上で養蚕のことは忘れてはならない。全国的な養蚕の発達は、民家の形を変えた。寄棟中心だった民家は、通風や採光が求められて越屋根やハッポウが導入されていった。

 

「そこにあるもの」で家はつくられた

 壁の材料ひとつとってもさまざまなバリエーションがある。ではそれはどうして決まったのか? 身の回りにあるものを使うというのが原則だ。土の少ないところでは竹を使い、一方山あいでは木の方が豊富だったので板壁を選択した。伊豆半島のナマコ壁は海沿いでいい土が無かったから発祥した。そうやって地域によって表情が変わってきたのだ。だからその地域の条件をよく観察する必要がある。

 現在の木造住宅は土台の上に柱を建てる(基礎や石と柱は触れない)が、以前は石の上に直接柱を建てる「石端建て」が主だった。そこで、柱の下の部分に足固めの貫を回した。楔で止めている。この貫の上に直に根太を受けるので、根太掛けの意味もあった。シンプルだった。

 雲南省ルーツの高床住居起源説を唱える人々がいる。「定説の縦穴住居復原図は間違いだ」と。登呂遺跡の水田のジトジトしたところに土間生活したのか、とか、炉跡が出てこないではないか、と。歴史はあるときに覆されるかもしれない。先入観にとらわれるな、歴史はあやしいものだと思ったほうがいい。

 建物が残っていても、どんな暮らし方をしていたかは、古老からの聞き取りに頼らざるを得ない。聴き取りをしっかりする必要がある。

 人間が生きていくために余計なことをしている余裕はなかったのだろう。でもそんな中だからこそ儀礼や年中行事や秩序があった。昨日の大橋氏のスライドが美しかったのはそんな「秩序」ゆえだったろう。集落の中では、人は信頼し合わなければ生きてはゆけなかった。自然に対する信頼もそうだ。そういうものが今忘れられているのではないか。ではどうしたらいいのか、の解答は難しいが、民家を見ることで、せめて昔の人々の「正直な生き方」を感じて貰いたい、と切に願う。

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