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§1 泰山館と出会うまで
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今日は集合住宅を中心にお話したいと思います。
僕が最初に大きな集合住宅をつくったのは今から16年前、40歳の時で、泰山館という集合住宅でした。それまでは、小さな個人住宅を一つ一つ作っているような状態で、エレベータ付きの家は作ったことがなかったし、50坪程度が最大の仕事でした。インテリアの仕事もあったけれどほとんど住宅ばかりで、年に一棟のペースで、10年間で10棟程度でした。喰う喰わずの生活でしたが、人間とはどういう訳かなんとかやっていけるものですね。そんな時、泰山館のような1000坪・10億という大きな仕事が天から降って湧いたわけです。いきなりそんな大きな仕事が来たときは本当に嬉しかったですね。
マンション等の集合住宅はディベロッパーが介入してきたりしますから、小さな住宅を作るのとはやり方が違いますよね。僕は何も知らなかったからかも知れませんが、小さな住宅を作る延長で集合住宅を作っていきました。まず34個の部屋があったのですが、言うなれば34戸の戸建て住宅を作るように、全て間取りが違います。図面も膨大な量になりました。普通は配管等のために上下の間取りを揃えて考えますが、僕はそういう器用なやり方を知らなかったから、間取りがそれぞれ違ったり上下の配管が違うのは当たり前だと思ってやっていたのです。泰山館はそういった流れで、中庭を挟んで34個の部屋がガチャガチャガチャって入り交じった一種独特な建物となったのです。
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▲泰山館
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§2 パターン・ランゲージという手法
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泰山館を作るとき僕が1番参考にしたのは、建築理論の世界で有名なクリストファー・アレグザンダー著『パターン・ランゲージ』という本です。今でも鹿島出版から出ていますが、たまたま僕は埼玉県入間市に建設予定の盈進学園という学校建設の時に、このクリストファー・アレグザンダーの元で働くことができました。20年ほど前のことだと思うのですが、彼の元で・ランゲージについて学びました。彼のやり方はびっくりするような方法で、彼はまず、直営方式(建設会社や工務店に依頼せず工事に関わる職種それぞれに分離発注する方式)で学校を作りたいと言いました。当時50億という大きな仕事を直営でやるなんて考えられないことでしたから、学校建設に関わる理事会等から猛反対されました。
それは、一つは開校までに工事が終わらない可能性があります。日本のゼネコンはある意味で優秀だから工期までにピタッと終わらすことができますからね。次にコストの問題で、直営でやるといくらかかるか分からない。彼は大変な戦いを理事会やゼネコンに挑んだわけです。僕はどうやってそれを論破していくのか興味津々でした。結局彼は負けたのですが、それがとっても論理的で面白いものだったんです。我々が思っている建築観を論理的に打ち崩していくんですね。
例えば、コストを抑えるにはどうしたら良いか。彼が作ろうとしていた建物は混構造(ハイブリッド)でしたが、一階が鉄筋コンクリート造、二階が木造というハイブリッドではなくて、一つの壁が異種の材料でできているというハイブリッドでした。一つの壁の中で軸力と水平力に耐えられるような構造、具体的に言うと木の柱と柱の間にブロックを積むんです。その当時、確認申請は通りませんでした。今はだいぶ自由になってきましたが、当時では考えられない方法を彼は考えました。彼は論理的にそれは成り立つという。確かにその壁の構造で外力に耐えられるはずなんです。ただ日本の役所では鉄筋コンクリート造というとラーメン構造か壁式構造のどちらかに決まっていたんです。
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§3 生産・施工も引き込む
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コストについてですが、さて、ブロックを1段積むのにいくらかかるのか。彼は既製品のブロックを買ってくるのではなく、工場を探して新たなデザインを作ろうとしました。僕はこの時ブロックの勉強を散々しました。ブロックがどうやってできるのか、僕自身が勉強しなければならなかった。ブロックがなぜ日本でこんなに流通しているのかその時始めて知りましたが、生産性がとても良いのですね。オートクレーブという養生をしながら一日3回転くらいしてしまうんです。ただ普通ブロックは見た目が汚いですよね。だから黄色い砂で作ろうということになり、次に砂を探して歩きました。そして千葉に良い砂が見つかってブロックを作ることが決まりました。
ブロックのデザインにもこだわりましたね。日本におけるブロックの歴史ってとても面白いんです。1970年、80年頃までは透かし模様の付いたブロックが沢山あるんです。それが工場によってみんな違っていて、桜や五つの輪が重なったもの(東京オリンピックの頃かな)、ひし形(ダイヤ)が二つずれて重なっているものとか、写真を撮っていてすごく面白かった記憶があるんです。これをまとめたものを一度『住宅建築』に掲載していただきました。その後ブロック工場は淘汰されていき、今はダイヤ型と三ツ山の二種類になってしまいました。昔は資本が分散していたので模様もいろいろあって、面白い話です。一度論文に書きたいくらいです。(笑)
次に積む段階になった時、一人の大工さんが一日に何段積むことができるか実験しました。人工代(大工さん一日の手間賃)がいくらで、鉄筋と砂と水、足場等々、それを彼は計算しちゃうんですよ。これに僕は驚きました。日本の建築家は、ブロックの目地の絵を書くくらいで、あとはゼネコンが見積をする。もちろんブロックのデザインをするなんてことを絶対しないし、しかも混構造にするなんて考えつかないでしょう。彼はそうやってコストコントロールしようとしたんですね。
次にタイムスケジュールをどうやって組むかなんですが、実験でだいたいの時間が分かりますが、工事ってそう上手くは進まないものです。それで、彼はいくつかのチームに分けて、施工区域を割り当てました。早く終わったチームにはボーナスが出るなんていう、ボーナス制度を作っちゃったりして。そうすると業者はとても頑張りますよね。非常に知的というか、知恵をいつも使うんです。僕は建築を始めて7、8年目の頃にクリストファー・アレグザンダー先生に出会ったんですが、ああ、建築って僕が考えていたのとは全然違っていて、生産の段階までも引き寄せてやるんだってことがわかったんです。
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§4 伝統技術を理論的に見る
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その盈進学園は現在東野高校といいます。これはいろんな挫折があってクリストファー・アレグザンダーの夢には程遠いものになってしまいましたが、ぜひ一度見ていただきたい。その中に木造の体育館があります。僕の知るかぎり戦後最初に建てられた木造の校舎は筑波の体育館だったと思いますが、それと同時並行くらいで作られたのが、東野高校の木造の体育館でした。木造の大空間をどうやって作るかという問題がありました。日本には昔から寺社等の大きな木造建築があったわけですが、その頃大きい木造建物を造る技術が途絶えつつあった。そこで彼は大規模木造住宅を作れる職人さんを探しました。見つかったのは天理教の人で、天理教には自力建設のための檀家で構成された「ひのきしん」という団体があるんです。そのひのきしんの親方の住吉さんという大工さんを口説き落して連れてきました。左官職人さんも随分探しました。これは蔵づくりの多い川越で探してきて、まず実験用の小屋を作りました。僕も一緒に塗って学びました。その時、クリストファー・アレグザンダーが面白いことを聞くんです。「日本の漆喰の化学式を言え」と。そんなこと言われてもねえ、と思いましたよ。大学の材料学でやったかもしれないけど……。彼は左官の材料についても良く知っていて、こうだからこうなるって、理屈がたつ人でした。僕らは伝統的なものを考えるとき、あの職人さんがやるからこうなるって感じでしたが、彼は伝統的なものに対しても理論的に考える人でした。その科学性・合理性にもびっくりしました。
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§5 池づくりで掴んだもの
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それから東野高校には大きな池があります。敷地が一番低く雨水が集まりやすい場所に計画しましたが、そもそも溜め池でない場所に池を作るのは大変なことでした。池を作るにあたって、「水が漏る」「水が腐る」という問題がありました。その時彼は「泉、48時間で調べてこい」と、こう言うんです。しかも、コンクリートやシート防水等をせずに自然な作り方で作りたいという。そんなこと言われてもって感じでしたよ。そしたら「皇居にも、お寺の廻りにも池があるだろう」っていうんです。彼は僕よりもいろんなお寺のことを知っていて、確かに伊勢神宮にも東大寺の前にも池があるんですね。あれは、建築に使う木を水に入れて乾燥させるためとか、風水の関係とかいろいろ理由があるらしいです。とにかく「漏れない、腐らない自然な池」を48時間で調べろってことでしたが、結局一ヶ月くらいかかりましたね。いろいろ調べて辿り着いたのは、農業土木でした。つまり水田です。6月、7月の雨が降るころ、水田には水が溜まりますね。あれは粘土層のためなんです。その時、水田って粘土層でできているんだって、なるほどって気付きました。それでも粘土は水が漏れます。そこで更に粒子の細かいベントナイトという土を見つけました。ベントナイトを敷いてその上に粘土を敷くことで水が漏らない。これは確信に至たりました。
今度は水が腐らない方法ですが、そのためには水が入れ替わらなくてはいけない。文献などを読んで、真夏の一番暑い時で一ヶ月に2回転すれば腐らないということが分かりました。それだけの水をどうやって補給するか。水道を引くと、水道代やモーター代はかかるし塩素を含んでいる等の問題があった。次に当然考えるのは敷地内の雨水を集めることでした。屋根に降った水は配管で100%集めることができる。敷地内に降った雨は0.2%は流出してしまいます。その流出した雨を集めれば良いわけで、どのくらいの量を確保できるか簡単に計算できます。しかしどう計算しても雨水だけでは足りない。そこで浄化槽の水、つまりトイレの水を浄化して使うことを考えました。ところが浄化槽で浄化される水は自然な作り方ではなかったのです。そこでこれも48時間で調べろと言われました。これはとうとう僕は解決できませんでしたが、それ以来僕は浄化槽に興味があって、記事が出ていると読むようにしています。あんまり進化していないですよね。
そして井戸を掘ることになりました。一日ポンプでどのくらいの水を組み上げることができるか、また電気代はいくらかかるか、これも全部計算しました。ポンプを使うことになりましたが、やっとどうにかこうにか「水が漏れない、腐らない」池の構想ができあがりました。
それまで池を作る経験なんて無かったんですが、自分でいろいろ調べることによって作ることができたんです。頑張ればできちゃうものなんですよね。知恵を働かせたり、例えば農業土木だっ!ていうように何か直感で掴んでいかなければならないところはあるかもしれないけど。
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§6 建築観を変えた人との出会い
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それまで建築設計が面白く無いと感じていた僕にとって、これはまるっきり違う世界だったんです。それまでは図面までが僕らの仕事で、その先は僕らの仕事では無かったんです。図面に書く内容も僕らと関係ないところで、こうやって書くものだと決められているような感じだったのが、クリストファー・アレグザンダーの元で働くことで、建築感がまるっきり変わりました。36、37歳の頃でしたが大変なインパクトでした。つまり建築というものが図面だけではなく、建築を取り巻く様々なベースから出来ていて、それらを僕らが理解しコントロールして、組み替え結びつけることによって、建築ができるということを僕は知ったんです。
付け加えですが、クリストファー・アレグザンダーの敷地の読み方ですが、敷地に行って旗の付いた竹の棒をさして廻るんです。赤い旗は建物の角にさしました。彼は敷地で設計してしまって、いきなり図面を書かないんです。後で棒の位置を測量して図面を起こすやり方で、その繰り返しでした。図面を書かないと言っても、図面はやはり必要なんです。積算のためにはやっぱり図面があったほうが早いですよね。
しかし、このプロジェクトでは、結局クリストファー・アレグザンダーは戦いに負けて、直営ではできず、ゼネコンが入り、池はコンクリートの池になってしまいました。クリストファー・アレグザンダーは設計の段階までを終えて帰国しました。その時の工事の内容を『ザ・バトル』という本にまとめているのですが、残念ながら出版はされていません。もし出版されたら、すごく面白い近代建築の批判になるかなと思います。
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§7 村のような集合住宅が良い
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僕もそのプロジェクトから途中で手を引くことになり、またプラプラしていたら、先程の泰山館の仕事がきたんです。僕はやはり棒を立ててプランを作りました。当時オーナーは70歳という年齢で事業を始めました。完成したのは1991年でその年の9月にバブルが弾けるという大変な時期の工事でした。当時普通のマンションで180〜190万/坪と言われていましたが、泰山館は98万/坪というかなり安い金額で作ったんです。とにかくディベロッパーやゼネコンを入れずに10億の仕事をやろうと。結局今度もゼネコンは入りましたが。僕に担保価値が無かったからかもしれませんね。その時弁護士、会計士、不動産、オーナーと建築家等でプロジェクトチームを作りました。やはり大きい工事になると建築家だけでは仕切れないんです。近隣との金銭的なトラブルが起こる可能性がいくつもありますから。相続の問題などを含めてチームで計画案を作りました。図面ができてからゼネコンに見積依頼をしましたが、その時、不動産屋や銀行から猛反対を受けました。というのは、敷地の真ん中に中庭を計画しました。当時駐車場代は一台4〜5万/月でしたから、20〜30台の駐車場を作れば年間3000万くらいの収益があるはずですが、それを中庭にすると収益が悪いわけです。しかも建ぺい率60%、容積率200%、だったところを40%の120%で作ったのです。普通集合住宅を造る場合、建ぺい率、容積率ともにギリギリで作るんです。これがディベロッパーやゼネコンのやり方です。これが低い建ぺい率、容積率でできたのは僕らが主導権を握って進めたからで、大きな力に押しつぶされずにやることができたからです。
素材としてはかなり自然素材を使いました。普通集合住宅で漆喰を使うなんてありえないんですが、僕は盈進学園の仕事を通して漆喰のメンテナンスの良さを知っていたんです。17年経った今も泰山館の壁はきれいですよ。窓も木製です。プランは一つ一つ違いますが、これは無理して変えたわけではないんです。大きい部屋、小さい部屋があったほうが社会の変動に対応できると考えたからです。それともう一つ大きな理由は棒を立てながら、各部屋の窓からの風景、隣の部屋との関係等を考えてプランをしたので、出っ込み引っ込みのある複雑な形になったんです。
出来てみて面白いことが起こりました。一つの部屋に料理屋さんが入ったのです。住んでる人だけではなく、外部から来訪者が入ってくるのです。公団等の住宅は同じ大きさの部屋ですからだいたい同じくらいの世代が住みます。夫婦→夫婦+子供→老夫婦というように世代が動いて行ってしまうんです。でも、いろんな世代が同時期にいたほうが面白いじゃないですか。大小の部屋があればいろんな世代が住むことができるし、お店があれば、ただ住むだけではなくいろんな人が訪れますからその空間が活性化されます。それで気付いたのは、集合住宅は「村」みたいに作ったほうが良いだろうってことです。
当然自然もあったほうが良いし。泰山館には100種類の植物を植えました。食べられる実のなる木、料理に使える木、花の香が強い木等々。植栽も里山のように複雑に配置されています。ようするに村を作りたい、ということです。
デザイナーズマンションブームがあり、建築家がその分野にも介入していきますが、村的なものを作る意識というのは非常に薄いと思います。僕がいう村的なものを作るためには、まずディベロッパーと手を切ること。それから自然素材を使うにはやはり職人さんたちと一緒にやっていかなければならない。そして建築家が全体を指導していくことです。
それが泰山館をやって気付いたことです。
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§8 10年振りに手掛けた集合住宅
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50歳になって集合住宅の依頼がきました。10年振りです。ディベロッパーと付きあっていたら定期的に集合住宅の仕事がくるんでしょうけど、僕は嫌なんですね。ディベロッパーと組むとどういった仕事になるかというと、まず営業マンが建物が古くなって近々建替えそうだと見込んだ敷地に話を取り付けてくる。そうすると設計事務所は、仕事になるかどうかわからないが、企画設計をする。建ぺい率、容積率はこうで、建設費はいくらで、月々いくらの収益になるっていうプランを設計事務所はいっぱいさせられるんです。そのうち成功するのは二割もいかないんじゃないかな。その企画設計が仕事のほとんどを占めるんです。僕はそういったのは嫌なので、集合住宅の仕事が直接こないうちはやらないってことにしていました。
50歳になって依頼がきた集合住宅はアパートメント傳(でん)といって、落合駅から徒歩2、3分のところに位置しています。これも敷地の真ん中に喫茶店があります。この近くに葬祭場があったので、その帰りに喫茶店に寄る人がいるんじゃないかなと思ったのです。でも旗竿敷地で奥まっていましたから、どうやってお客を呼び込むかと思いました。ところが、葬祭場帰りの方はもちろんですが、地域の人が集まるようになりました。地域のおじさんおばさんのたまり場みたいです。これはしめたと、これで集合住宅自体が活気を呈するなと思いましたね。
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▲アパートメント傳
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§9 一つ一つ、仲間と丁寧につくる
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プランは例のごとく8坪〜20、30坪の大小様々なプランを混在させました。建設会社はそれまで僕が住宅を一緒に作っていた社長と現場監督の二人だけの会社でした。小さな会社で何億って仕事はできないのですが、どうにかやり遂げました。それまで一緒にやってきた職人さんたちと一緒になって作ったんですね。工期は多少延びましたし、僕は現場に毎日のように行ったりして、工程を管理したり、墨がちゃんとでているかとか、半分現場監督の仕事もやっていました。
左官については、石灰を焼いたものを水にいれ化学反応させてドロドロにしたもの(生石灰クリーム)に三河地方で取れるサバ土を混ぜて漆喰を作りました。石灰は農協で手に入れて、サバ土はトラックで2、3回取りに行きました。石灰は一袋20リットル位入って200円なんです。あとトラック代程度の費用でした。生石灰クリームとサバ土の比率を変えてみたり、ツルンとしたのは嫌なのでワラを入れてみたり、事務所で実験しました。いろいろ工夫すると複雑なテクスチャーにもなるし、割れにくくなります。そうやって割れにくく、施工性も良く、テクスチャーも良いという微妙なバランスを見つけていくんです。そうすると要素として複雑になっていきます。そうやってアパートメント傳の外壁を全部ワーッと塗ってしまいました。左官のお師匠さんで榎本新吉さんという方がいるんですが、その方が見に来て、うわーやっちゃったね、って言っていましたよ。僕も今思えばすごいチャレンジだったと思いますね。ドラム缶に水と石灰入れて沸化(ふっか)させサバ土を混ぜ、ワラを押切で切ってと、全部現場でやっていたのですが原始的な風景でしたね。大手ゼネコンの建設現場では見られない風景ですよ。左官屋さんが本当に良くやってくれました。内部もかなり左官で仕上げたのですが、左官をそこまで大々的にやったのはそれが初めてでした。大工さんも、建具屋さんも、水道屋さんも、みんな十数年付きあっている職人さんです。僕が泉建設として仕切っていくことで、大きな建物もゼネコンに頼まなくてもできると、その時自信がつきました。
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§10 面積より質の高さが美しい風景を作る
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これからスライドでお見せするアパートメント鶉(じゅん)は、目白警察署の近くにあって、江戸中期からそこに住んでいた地主さんからの依頼でした。最初はやはり大手ゼネコンに依頼しようと考えていたようですが、先祖伝来の土地の利用として何か違うと考えた地主さんが、僕に依頼してきたんです。このすぐ近くに目白通りがあって、その通り沿いには9階、10階建ての集合住宅がいっぱい建っています。そんなところにまた容積だけかせいだ集合住宅を作るにはリスクがありました。工事費に対して収益がなければ当然破産しますからね。建築家はそういった計算も考えなければいけない。ここは建ぺい率60%、容積率200%の地域だったのですが、僕はやはり建ぺい率45%、容積率90%程度で設計しました。容積ぎりぎりで作るより、良い空間を作ることを優先したんです。良い空間をつくれば入居者は絶えないだろうという考え方です。これは実際本当です。建築家の仲間がこれを見て、建築家のやりたいように作って、よく施主を騙したなっていいます。施主を騙したのではなく、良い空間を作ることに施主も納得し賛同してくれているのです。そのために収支計算はデベロッパーでなく自分たちで考えます。デベロッパーを入れたら全然だめです。借り入れた工事費に対して家賃収入や駐車場費収入がいくらかという計算を20年に渡って計算して、バランスのとれるところを探していきます。少しだけ家賃が高くなりますが、容積率や建ぺい率を減らして良い空間をつくり、少し多く工事費をかけるようにしています。みんななぜこの方法で作らないのだろうと思いますね。どうしても大きく作りたがる。これはディベロッパーが介入するからですよね。僕は東京の風景を悪くしているのは、ゼネコンとディベロッパーだと思いますね。とにかくあいつらをやっつけたい。(笑) それよりは僕らみたいな弱小アトリエ事務所が100坪、200坪の集合住宅を丁寧に作っていけば、美しい都市風景を作ることができると僕は思います。いつの時代も景気回復策としての住宅政策ですが、それに惑わされず小さなアトリエ事務所が少しずつたくさん良い空間を作っていくことはとても良いことだと思うし、これからはそれしかないと僕は思う
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▲アパートメント鶉
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§11 密やかな路地、池と緑で構成する
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「鶉(じゅん)」という名前はその地域が昔、鶉(うずら)山と呼ばれていたことから付けました。外に働きに出る人、家で仕事をする人、いろんな人が入居しています。貧乏人はなかなか入れないのが現状ですが、コストを坪60万程度にまで下げることができれば、きっと入居できるようになると思います。これから挑戦しなければと思っています。この地域は文教地区で喫茶店すら作れない場所でしたが、法律スレスレでギャラリーを中に作ったりして、村としていろんな要素を組み込みました。長屋門のような入口、蛍の出る池、これは盈進学園の時に実現しなかった経緯があったので、なんとか実現させたかった。そして、細い路地。昔は路地のような密やかな空間が在ったけれど、今は建築基準法で、消防車侵入のため4m道路に接道することが決められています。僕はこれが嫌でたまりませんね。プランは例のごとくそれぞれが違う。そして区の保存樹となっていた柿の木は、枝ぶりまで測量して、建物と枝との関係を考えました。春先にはコブシが咲き、枝垂れ梅、枝垂れ桜、そして新緑がいっせいに芽吹きます。カエデ系の木は葉と一緒に小さな花が咲きます。夏になると池に睡蓮が咲き蛍が出て、その頃からコオロギと鈴虫が鳴き始めます。そし紅葉して落葉になって、暫く寂しい状態がある。この寂しい状態があるからこそ、花が咲く喜びがありますよね。路地には昔あった主屋の瓦を埋めたりして、時代を引き継ぎたいと考えました。
僕は普段どこかで見た風景を設計に取り入れたりしないのですが、でき上がったある一画を見た時びっくりしました。以前『造景』の第一号で特集されていた中国・宏村の風景がとても印象に残っていたのですが、それを思い起こさせる風景がアパートメント鶉の一画にできていた、なんてこともありました。
実はアパートメント鶉の敷地はいくつかの敷地が集まってできていて、各敷地は本来は4mの公道に接道する必要がありました。そうすると必然的に公道からアプローチするプランになるのですが、ここでは敷地内にある2.3m巾の路地から出入りするよう設計しました。それが可能だったのは、敷地の3面が道路に面していたからで、確認申請上、各住戸へは外部の道路から直接入ることになっていて、そこにはちゃんと勝手口が配置されています。実際はその勝手口からの出入りはほとんどありませんがね。この路地空間ができたのは、3つの道路に接道していたからですね。
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§12 僕の集合住宅づくりの手法
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先程お話した『パターン・ランゲージ』は、260以上のパターンが縦横に繋がって形成されています。僕はそれを「領域」「中心」「連続」「散在・混在」という四つに自分なりに分類しました。アパートメント鶉の中庭でいうと、中庭という領域があって、池という中心がある、中庭と廻りの家、アーケード等とどうやって繋げるか、『パターン・ランゲージ』から逆にこのような方式を考えました。僕はパターンを直接使うのではなく、空間の読み取り方としてこの四つの分類でいつも構想しています。
このそれぞれの概念を大きな領域から小さな領域まで、柱一本に至るまでいくつも重ねていきます。そうすると必然的ともいえる複雑なものができるんです。無理して複雑にするのは変ですよね。この必然性のある複雑さは、近代建築が失ったものだと僕は思います。
さて、普通大きなプロジェクトの進め方は、一番上に施主またはディベロッパーやゼネコンがいて、その下に建築家、以下あらゆる下請けと続くピラミッド構造です。僕の場合は施主・会計士・弁護士・不動産業者・建築家という独立した専門家によるプロジェクトチームを組み協働してやっていく。
そして収支計算は建築家がやる。オーナーにとって建設は事業です。ゆったりと作りながらも経営的な確実性が求められます。できるだけリスクの少ないようその裏付けを建築家はとります。収支計算は絶対に建築家がやらなければならない。これが全ての根源で、容積率も建ぺい率も、工事費も家賃もそれで決まってきますから。これからは建築家がディベロッパーやゼネコンからこの部分を奪還していくべきです。このためにプロジェクトチームを組むんです。
人は自分の知恵を信じてやれば、いろんなことができるんです。例えばアパートメント鶉の池ですが、これはほとんど雨水だけです。ヒントは教えてもらったが、作り方を誰に教えられた訳でもないんです。自分の頭を使って考えてそれを信じてやっていけばできちゃうんです。
また、僕は村を作るとき、漆喰や和紙、木材等々できるだけ自然素材を使っていくんですが、合理的につくっていきたいなというのが一方であります。アパートメント鶉は在来とパネル構法の中間みたいな作り方をしました。このパネルは小さな町工場で作ってくれるのですが、精度がものすごく良い。伝統的な大工さんの仕事は逃げをとって納めていくやり方ですが、町工場のやり方は精度を上げていく仕事です。このやり方は化粧と下地という方法で反省しているところもありますが、施工が行き当たりばったりではなく、きちっと段取りが決められていて、近代的な合理性かなと思います。
アパートメント鶉では昔の欄間や瓦、柿の木等いろんなものを残しもしました。これは、風景を連続させるということもありましたが、一番切実な問題は代々この家から出ていった親族の方々が、建替えを嫌がることです。だけどいろんなものを残すことで思い出が残り、納得してくれます。そうやっていろんなものを重ねないと村って作れないんだろうなって、僕はこれまでの経験から感じています。
以上です。ありがとうございました。(了)
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