平良敬一先生喜寿記念講演会 講義録

第二回講演

いま建築界にもの申す
都市主義の限界

2003年4月12日(土)15時30分〜17時40分 場所:神楽坂光照寺

 建築評論家の平良敬一・神楽坂建築塾塾長は、今年めでたく喜寿を迎えられました。それを記念し、4月5日と12日の2回にわたり神楽坂において喜寿記念講演会を開催しました。これは、その第2回講演の内容をテープをもとに起こしたものです。


▲講演する平良塾長

平良敬一氏(建築評論家)

1926年 沖縄県生まれ
1949年 東京大学第一工学部建築学科卒業、新日本建築家集団(NAU)事務局に参加
1950年〜『国際建築』編集部
1954年〜『新建築』の編集を川添登氏・宮内嘉久氏・宮嶋圀夫氏と共働
1959年 『建築知識』創刊、編集長
1960年〜 『建築』を創刊、編集長。優れた建築雑誌として一時代を築く。
1962年〜 鹿島出版会に入社
1965年 『SD』創刊、編集長。この間『都市住宅』の創刊。「SD選書」の発刊にも協力。
1974年 編集事務所、建築思潮研究所を設立、主宰。1975年〜『住宅建築』を創刊、100号まで編集長。別冊40数冊刊行。設計例集『建築設計資料』シリーズを企画し、刊行。
1992年 建築思潮研究所の代表を退き、相談役。1996年 隔月刊誌『造景』創刊、編集長。
1997年 日本建築学会賞受賞
1999年〜 神楽坂建築塾塾長

当日の主な発言者

長谷川堯氏(建築評論家)

1937年 島根県生まれ
1960年 早稲田大学第一文学部卒業。 武蔵野美術大学教授


【主な著書】
『生きものの建築学』(平凡社)、『神殿か獄舎か』(相模書房)、『都市廻廊』(相模書房)『建築有情』(中央公論社)、『田園住宅』(学芸出版社)など著書多数

安藤邦廣氏(筑波大学教授)

1948年 宮城県生まれ
1973年 九州芸術工科大学卒業。東京大学建築学科助手(内田研究室)を経て、現在、建築家・筑波大学 芸術学系教授(建築学・建築構法)
【主な活動・著書】
『茅葺きの民俗学』(はる書房)、木の建築フォラム・季刊、『木の建築』編集委員長、『住まいの伝統技術』(建築資料研究社)、『現代木造住宅論』(INAX出版)、『職人が語る木の技』(建築資料研究社)

三澤文子氏(建築家)

1956年 静岡県生まれ
1979年 奈良女子大学卒業
1982年 現代計画研究所(東京)勤務
1985年 Ms建築設計事務所設立
1996年 三澤文子/Ms建築設計事務所設立
2001年 岐阜県立森林文化アカデミー教授
【主な作品】
庵治の家・河内長野の家・弓削家など
【主な著書】
『民家型構法の家』(建築資料研究社)共著、『木造住宅の可能性』(INAX出版)、『住宅に空間力を』(彰国社)

青山恭之氏(建築家)

1958年 埼玉県生まれ1983年 武蔵野美術大学大学院(デザイン専攻建築コース)修了
1996年〜 永田博子氏とアトリエ・リング一級建築士事務所主宰。建築家・武蔵野美術大学非常勤講師

【主な作品】
浦和の家・萬壽山荘など


ハイブリッド構造としての民家

平良敬一:まず4月5日の講演会でアピールしたかったことを要約してお話しておきたいと思います。キーワードはハイブリッドなんです。古民家再生工房の仕事を見に行って感じたことがハイブリッドだったんです。私は民家の専門家でもないし、歴史家でもないんですれど、勝手に民家のイメージを最近ぐらっと変えました。民家というのは我々が知っている、寝殿造りや書院造などの造形や規範がはっきりしているものとはちょっと違うんですね。我々の住まいであった民家とは、縄文時代や弥生時代などは竪穴式だったわけで、それとは違うところで支配者の御殿があったんです。御殿と民家の決定的な違いは、秩序立ったものではなく、自由に様々なものの影響を受けて形成されてきていることで、そのことがとても印象的です。民家論というより民家造の歴史という視点で一万年を越える民家の歴史をみたとき、それは動的でけしてスタティックなものではない、いろんなものが共生しているという、自然と人間の営みが混成したもの、それが民家だと思うんです。それを一番言いたい。古民家再生工房の仕事を見て、混成していればなんでもいいわけではなく、それなりの設計の方法を越えた美学があったんではないかと、強く感じました。つまり民家は混成体つまりハイブリッド構造であったのではないかと。この「ハイブリッド」が今日も私のキーワードなんです。それをまずみなさんにアピールしておきたい。

 数寄屋造りもそうなんですが、それに決定的に影響を与えた利休の草庵茶室なども、僕の中ではハイブッリド性空間の極地に見えるわけです。そういう見方で良いのかどうか、皆さんにも議論していただきたいと思います。そのことについて、別冊『住宅建築 民家は甦る』のなかで書いたのですが、まだ不完全なのでもう少し詳しくまとめてどこかで発表できればなあ、なんてことも考えています。

 

「都市主義」と「田舎主義」の対比

平良:今日の本題は「都市主義の限界」というテーマにしました。このテーマの背後に仕掛けられているのは、田園都市構想の問題です。今日は長谷川堯さんがいらっしゃっているので、僕は長谷川さんにはっぱをかけたいと思うんです。同じような田園都市構想の理想について語るばかりでなく、もう少し社会活動として一歩二歩踏み込んだ具体的な実践論を提示していただきたいと考えています。後ほど、ご意見をお聞きしたいと思っています。
 今回の講演会のタイトルは解剖学者の養老孟司さんが去年出した本のテーマが都市主義の限界で、それをお借りしたんです。1970年前後の大学紛争を大学の教授として経験した彼が、そのことをどのようにまとめているのか。 彼はなかなかおもしろいことを言っているのです。
 結局大学紛争の中で、学生達が何を訴えたかったのか。訴えたことは理解できることもあるのだが、実際の問題は左右の政治運動というような理解になってしまって、実態はわからない。むしろあの背後にあったのは急激な都市化だった。1960年代から急激な都市化が進んだ。戦後大きな都市は廃虚になって、そこから経済が復興して、70年前後にはピークを迎えたという社会情勢が背後にあった。学生達は都市化を意識していなかったかもしれないけれど、その急激な都市化を敏感に肌で感じていた若者たちが起こした異議申し立ての運動が学生紛争であった。と彼は書いています。
 そういわれてみると私もそう感じます。その当時、私も都市化についての本も随分読みました。特に私なんかが社会哲学で影響を受けたのは、フランスのアンリ・ルフェーブル(1901〜1991)という哲学者です。フランスでも60年代後半の5月革命の時もやはり注目された哲学者で、60年代にはたくさん翻訳がでました。「都市革命」「空間と政治」など、都市化の現象などを分析した本を読んで、僕は随分影響を受けました。例えば日本では羽仁五郎の『都市の論理』という本が爆発的に売れましたが、それを読んで影響を受けた若者たちが、学生運動の中にはかなりいたはずです。当時の日本の若者たちも、都市化を全く感じていなかったということは無く、都市化が急速に激しく起こったということを肌で感じたと思うのです。我々がいま感じているものとは違う意味で、確かに何か感じていたはずです。
 養老さんの面白い見方というのは、都市主義の言葉の対義語として「田舎主義」を対比させていることです。中国の文化大革命も、彼に言わせると、簡単にいえば毛沢東は田舎主義だったのだ、ということになる。文化大革命の頃、共産党幹部から追われた人がいますよね、例えば劉少奇。それまでの社会主義から考えると、政党派に入る人なのです。労働総同盟のまとめ役というか、都市の労働者の運動全体に影響を与えるような人だったのです。それが、資本主義を歩む巨頭だということで、つるし上げられてしまったのですね。
 養老さんは中国の歴史も、都市主義と田舎主義ということで理解しようとしている。これまで日本では、毛沢東の文化大革命を少しロマンティックに考えていたんですが、養老さんは都市化に対する批判として捉えられているんですね。
 単なる都市主義ではなくて、資本主義では実現できないような、田園の問題を切り捨てずすくい上げて、都市の労働者、地方の農民をひっくるめて、今までにない毛沢東流の社会主義革命を目指したんだろうと思います。毛沢東後のトウ小平。このころから都市主義が優勢に進んだんですね。別の言葉でいえば、社会主義が資本主義に取って代わるような変化がおこった。いまの中国は社会主義とはとてもいえず、むしろ資本主義のように私にも見えます。資本主義というよりも都市主義といったほうが、実態がわかりやすいかもしれない。なんていういうな、養老さんの見方はとても興味深いです。

 

 

 

 

 

養老孟司(ようろうたけし)

1937年 神奈川県生まれ。東京大学医学部卒業後解剖学を専攻。東京大学医学部教授、北里大学教授をへて、現在東京大学名誉教授。主な著書に『ヒトの見方』 『解剖学教室へようこそ』ほか多数。

 

 

 

 

アンリ・ルフェーヴル
Henri Lefebvre(1901-1991)
マルクス主義社会思想家。主著に『空間の生産』など。

 

羽仁五郎(はにごろう)
(1901〜1983)歴史学者。ハイデルベルク大学で哲学を学び帰国後、歴史研究を開始。戦後は1947〜56年参議院議員、 その間最初の参議院図書館運営委員長に選任され、国立国会図書館の創立に当たる。49-51年日本学術会議会員、学問思想自由保証委員長などを歴任。主著に『都市』、『自伝的戦後史』など。

都市化とは石油エネルギーによって生み出された

平良:日本の歴史について養老さんは、日本において古代から中世というのは、都市主義から田舎主義への転換で、中世から近世へは田舎主義から都市主義へ転換であるとみる。それから江戸300年の都市文化が栄えた。そいうようなおもしろい見方をしている。 では都市化とはどういうことか。彼流にいえば、石油のエネルギーがつぎ込まれて、急速に世界中が都市化したことだ、としている。
 確かに日本の戦後の急速な戦前とは違った種類の発展は石油のおかげでしょう。古代都市には石油がなかったわけです。鬱蒼とした森林に囲まれている中で、森林を活用して巨大都市ができた。木材エネルギーは石油に比べて小さいエネルギーだった。だから、古代における巨大都市はむやみにどこででもできたわけではないんです。古代都市文明が起きたのは歴史で教わったような場所です。そいういう見方をすると、大都市ができているのもやはり石油エネルギーがつぎ込まれたためで、もし石油が供給されなかったら、確かに都市はしぼんでしまうだろう。養老さんの本はそういうイメージを我々にあたえてくれるような本です。
 彼はそういうエネルギーを、文化的ではなく理科的に考えると明確だという。このような明快な表現の仕方はやはり彼でなければ言えない。おもしろい本です。
 我々が直面している都市問題。超高層ビルもこれも石油のエネルギーによって成り立っていて、それがなくなったらしぼんでしまうはずなんです。それが都市の巨大化が進んで、オフィスビルならまだしも、必ずしも必要とは言えない住居としての超高層ビルが建ち並ぶ現実をどのように考えるかということにもつながっていくのです。
 私が2番目に問いかけたい問題は、養老孟司さんの本を読んで感じたことです。また養老さんは大きさ高さも含めて都市の限界、というのはどのあたりなのか問うています。それをもう一度考えるべきでないか、というのが彼の言わんとするところです。私も80年代以後、知識としてあったエベネザー・ハワードの田園都市を、もうすこしリアルに切実な課題として現実の問題として感じるようになった。それは、長谷川さんのいわれている田園都市構想などがあって、『田園住宅』という本を作るお手伝いをした頃からでしょうか。だんだん、僕の中で、田園都市構想は単なる頭の中の構想では終わらせたくない、日本のどこかで実現するために、その運動に刺激を与えていく役割をこれから残された人生やっていこう、という気持ちが大きくなってきたんです。
 次に1985年頃に出された本で、石見さんの『日本型田園都論』という本があります。石見さんがいう田園都市とはハワードのいうような、明確な輪郭・形態を持つものではないのです。実際に戦後日本で理想としての、そして目的として田園都市をつくろうとしたときに、ある問題にきづいたんです。それは、19〜20世紀のイギリスの状態と日本の状態では都市と農村とが入り交じっていく現象が進展しているという点で異なっていたことです。建築だけではなく、都市の構成もハイブリッドだという現実。それがどうも美しい形になっていないというのです。ヨーロッパの中世の都市は、境界がはっきりしていた。城壁の中が都会で、その中に都会人が住んでいたのです。その外にいるのが農民である。おそらくフィジカルな意味でも境界が明快だったのですね。日本の歴史の中では、こういった明快な境界線を持たない都市、例えば奈良や京都もそうです。戦後、全ての都市で都市化が進むとき、どんどん田舎の空間を侵していく形で進行していったのです。
 こういう状態を現実として受け止めたうえで、さあ、田園都市を作るにはどうしらた良いか、どういう方法があるのか。単なる造形的な問題を越えて、政治、社会問題へ向けて行動を起こしていかなければ、どうにも動きがとれない、そんな気がしています。

田園都市の実現に向けて

青山恭之:ここで、田園都市の実践というようなことが話題にでましたので、藤本昌也さんにつくばでの活動についてお話いただければと思います。

藤本昌也:私は建築家大高正人さんのところで修業していたのですが、当時大高さんは、日本の農村集落をどう考えるのかという事や、農村から都市を見る視点が大事で、都市のアンチテーゼとして農村を考えたいということをしきりに言われていました。また、石見さんの本にも日本型田園都市のひとつとして、福島県三春町について書かれていたと思いますが、大高さんの故郷でもある三春のまちづくりを現在に至るまで長年にわたって継続的に実践されている方です。
 昭和40年代に入り、都市が近郊農村を蚕食していく状況が激しくなり、スプロール化は看過できない問題となっていました。これを都市政策として解決すべく、「緑・農・住区構想」というものが農林省と建設省が共同して提案されたのです。当時都市計画では「線引き」という制度があって、都市と農村の領域を「線」によって明確に区分しようとした訳ですが、それを「線」ではなく、「帯」と考え、帯状の部分を都市と農村の共生する、言うなれば、緑と農と住の望ましい混在地区として捉えようとした訳です。この構想立案に大高さんのもとで私も参加していましたので、そのことが今日の平良さんのテーマに関心を持つ大きなきっかけになりました。
 実際は、当時の高度成長の波に飲み込まれ、この構想は緑と農が消えて、住・住構想みたいなものとなって、この構想を発展させる現実的基盤が全くなくなってしまったのです。
 しかし、去年、田中文男さんのつくばのお知り合いの方からある話がありました。その方は、かなりの土地資産をお持ちの方で、その土地がたまたま都市公団が区画整理をかけている180ヘクタールの中にも存在していたのです。
 ところが、現在の区画整理事業の実態は、事業的には惨憺たるものです。それならばということで、その地権者の方は、中央突破の唯一の切り札、田園都市をつくろうじゃないかと考え、法規制や税制について詳しく調査する一方、地元地権者協議会を立ち上げ、地権者のリーダー的存在として活動を始めたのです。いろんな学者さんに相談したのだそうですが、みんな空中戦の議論はするのだけれども、そこから先の議論は全く無かったらしいのです。これではだめだと思ったそのリーダーの方は、田中さんに相談して、それで私のところに話が持ち込まれたという訳です。
 その方とは、田園都市の夢物語は山ほどあるけれども、実際にはひとつも実現していないことや、民間デベロッパーでは絶対できる状況にないこと、また、本物の田園都市を本気でつくろうというのであれば、何よりも地権者全員がその覚悟を決めなければならないというようなお話をしました。実現するには地上戦が必要なのです。そのため、我々が汗をかくような状況を作ってくれるのであれば、お手伝いしましょうとお話したんです。そして、去年1年間、ほとんどボランティア的なお手伝いをしてきました。最後は都市公団が決心することなのですが、一応地権者協議会の提案として「つくば田園都市構想」を打ち上げました。その中では田園都市という絵が現実の資産管理事業になるような根拠と筋道まで解き明かしたのです。これまでは緑・農・住が絵としては描けても、実際に事業が成立するような答えが出されていなかった。
 そこで考えたのが、市民緑地制度の税金と絡んだ支援制度を積極的に導入することによって、農家があまり欲張らず、定期借地のような経営で安定的にやっていくような事業スキームを前提に、地権者がその覚悟をしてくれたら、かなり、実現の可能性は高いでしょうと申し上げたのです。まだ、あまり大きなことは言える段階にありませんが、もしそうした仕組みに向けて多くの地権者の合意形成が図られるならば、ひょっとすると我が国初の日本型田園都市構想が実現できるかもしれないというところまで来ています。
 そのような活動の一つとして、2,3月は7箇所の村を廻って、我々が考えた構想を討議する勉強会をしてきました。それで、もう後は公団なり国なりがその構想で行くのかどうか、そして地権者たちもそれでいいのかどうか考えたもらえば、今年中に最終的な結論が出るはずです。うまくいけば来年には事業になるかもしれません。平良さんがおっしゃったように、理念的にははっきりしている田園都市構想を、日本の土地所有の仕組みの中で、どこまで実現できるかが最大の課題なのです。今、遺産相続税といった国税が変わらなければどうしようもないということまで見えてきています。まさにソフト・ハードが深く関わっているのです。そういった事をご報告して、私の話を終わらせていただきます。

 

 

 

大高正人(おおたかまさと)
JIAの建築家達

純粋化が排除したハイブリッドの復権

安藤邦廣:これまでのお話と直接は関係ないのですが、平良さんのレジメを興味深く拝見して、今平良さんがどんなことを考えているかがわかり、それは私が考えていることとも重なる部分がありましたので、その点を私の解釈も踏まえてご質問したいと思います。
 養老さんの話がとても興味深いのですが、都市主義と田舎主義の仮説ともいうべき表現なのですが、この仮説をもとに、日本の歴史や社会的な事象がどのように読み解けて、それをどうやってこれから活かしていくのかということに興味があります。私は今は歴史的な流れに強く関心をもっているのですが、この中の一説、古代から中世、近世の流れは、都市主義と田舎主義の繰り返しで、その繰り返しによって今日の日本があるというところが、私にもピンとくる所なのです。古代とは、律令制度・国家という思想、仏教という宗教、これを受容した時期の始まりです。中世というのは、それらが日本が普及し、土着化する時代と捉えていいと思います。近世になると、都市主義になるということは、また新しい思想なり技術が導入されたという事だと思います。新しい思想なり技術というのは、古代に比べると少し不明瞭だとは思いますが、たぶんそういったことなんだと思います。そうすると現代は都市主義の延長と考えて良いのでしょうか。
 それから、平良さんは都市主義とは純化を意味すると考えているんでしょうか。また、最終的には混成体がイメージだとされていますが、そのハイブリッドと純化を比較することで、何か議論を深めたり理解できることがあるのでしょうか。
 それから、江戸を考えるとき、江戸は「都市」だったとして良いのでしょうか。日本型田園都市とうのがそのまま江戸であったという議論もできるのでは思います。先程の理論からいうと、江戸はヨーロッパ的な都市という定義からは外れています。ですから、江戸がいち早く達成された田園都市であったという仮説があるのかもしれない。
 江戸には後背地があったわけですし、都市と農村の循環も成り立ち、ゆえに300年も続いた訳です。江戸は田園都市であったという本もいくつかあります。平良さんの母校である東京大学があった場所も、元加賀屋敷ですし、そういった屋敷が江戸にはたくさんあった。そういう例は世界でも例が少ないんですが、江戸というものの位置づけ、養老さんの仮説に引っ張られた、平良さんの見解をお尋ねできればと思います。

平良:純粋化とハイブリッド化は、どちらも現実に現在進行中だと思います。僕がモダニズムと考えているものは、依然として純粋化を進めている。日本の先端をゆく建築家のデザインは、どうもそういうものに思える。それを私が不満だと思う理由は、都市化の中に生きているにも関わらず、僕の中に田舎主義があるからだと思います。純粋化の反対に、純粋化さえも巻き込むハイブリッドがあります。田舎的な要素を、この都市化の中に復権させるようにしたほうがいいのではないか、それが僕の考えです。では、どんな重心の置き方をしたらよいかというと、我々は田舎の実態を把握する必要がある。そこに起点を置いて、町づくりも建築のデザインも考えていかなかればならない。モダニズムの純粋主義が排除してきたもの、広くいえば自然ですが、その要素を生活の中に復権ささていくこと、そういったイメージでいます。
 江戸が日本的田園都市であったという仮説もありだと思います。なぜかというと、中世のヨーロッパ都市と日本の都市を比較すると、どうも腑に落ちないことがあるのです。僕は沖縄の宮古島で生まれ8歳の頃、東京の赤羽に越して来ました。少なくとも町の3分の1は水田が残っているような地区で、子供の頃の記憶では、赤羽が都会という感じはしなかったんです。電車で有楽町や浅草にでると、ああこれが都会なんだと感じたものです。昭和も戦前の記憶はそんな感じです。それが遡って明治の事を考えると、もっと田舎的な要素がある。でもそれがれっきとした都でもあったのです。中枢部には既に都市的な要素がちりばめられていて、都市であることには間違いないのだけれども、農民の生活が面積的には広くあったのだと思います。都市というイメージとは逆に、田園的な要素の比重が高かった。 ヨーロッパの都市と田園との具体的なイメージは僕もはっきりしないけれども、中世のヨーロッパのような都市と田園の明快な境界は日本にはなかった。それは決定的な伝統となっている。この現実を踏まえて、我々が住む生活空間をどのようにつくっていくか。その事を考えるために、僕もハイブリッド状の状況を確かめておく必要があると考えています。これから僕の勉強もそういった方向へ重心を移していくことになると思います。もしかすると日本のどこかに、田園都市に発展する要素をはらんだ地域があるかもしれない。それを軸にして発展していく形をさぐらなければならないと思います。

安藤:やはり都市は純化と考えていいのでしょうか。

平良:いや都市もやはりハイブリッドですよ。というか、純化というのはありえない。局部的にはありえても、それ単独では成立することができないのですから。そのような状態で都市は進行しているし、それを止められない以上は、その条件を元にして考えていかなければならない。ハイブリッドだから良いと言っているわけではなくて、ハイブリッドであるとすれば、それを踏まえて成立するような物作りを考えていくべきなんです。
 これまで単独でなりたっていた建築のデザインですが、都市的な広い意味での美学というものを、ハイブリッドの環境の中で探っていかなければならない。これからそれをリアルに確かめていかなくてはと思います。まだ、僕の考えがまとまっているわけではなく、そういった思想の初期段階で、いつかこれをまとめて発表したいと考えています。そうなったらみなさんにも読んでいただければと思います。泉さん、あなたの意見を聞かせてください。

泉幸甫:僕も田舎で育って、学園紛争を経験してきました。今僕がつくっているもの中の一つに、集合住宅があります。村みたいな集合住宅を都市の中につくっています。平良先生や安藤さんのお話を聞いて、今まで僕がやってきたことが、ああ、結局は都市と村との関係の中でやってきたのかな、そんな軸のようなものを教えていただいたような気がします。「農」「緑」「住」もこれも三つの混成体の要素だと思うのですが、それに何かプラスされたものが先程お話いただいたように「民家」なんだと思います。それが僕のなかでは集合住宅なんですけれども、それをどうやって発展させていけるかなあと考えています。

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