第2期(2000年度)神楽坂建築塾講義録

第17回講座(坐学)

テーマ“人との出会い”―『家づくりの極意』をとおして―


[写真:畑 亮]

講師:立松久昌氏(建築評論家)

1931年 東京に生まれる。1955年 早稲田大学文学部卒業。1955〜64年 彰国社勤務
1964年 立松編集事務所設立。『建築文化』『国際建築』『建築年鑑』の編集に携わる。
1975年に月刊『住宅建築』の創刊に参加。
83〜91年まで同誌編集長。のち建築思潮研究所顧問をつとめ、2003年9月14日逝去。

この内容は、2001年2月10日(土)に行われた神楽坂建築塾坐学の講演をテープ起こしの上、編集したものです。立松氏は2003年9月に亡くなられました。慎んでご冥福をお祈りいたします。【神楽坂建築塾事務局】


 私が立松です。
 今日申し上げたい二つのことは、『家づくりの極意』でも書いたことなんですが、「人と出会ってものを考えていく」という編集の作業についてと、地域あるいはふるさとにこだわるということ、です。
 人はどこで誰と出会うかによって一生が決まってしまうことがある。女にとっても男にとってもそうです。作不作がある。お互い必ずいい人に会えるわけではない。でも、選ぶという行為は個人に属していますから文句は言えません。それには、旅に出るなどして、出会いの機会をつくることです。

 

建築も人との出会いから生まれる

 私はなぜこの本を上梓する気になったのか。建築がまずあって人がそこに住むのではなくて、「人が居て住まいが在る」という思いが強かったからです。

 私が何をやって生きてきたのかをまずお話します。

 私は彰国社に約8年いて編集をやっていました。月刊『建築文化』をやって単行本も出したりしました。それから宮内嘉久さんに誘われて月刊『国際建築』という雑誌が大判(A4判)に切り替わるところから2〜3年やりまして、それが廃刊になりました。しょうがないからうろうろしていたら平良敬一さんに出会いました。ちょうど『SD』をやっていまして、頼んでそこで16頁やら32頁をもらい自由に立上げていいということになりました。それで生活していたら平良先輩が『SD』を辞めるということになり、1975年に『住宅建築』を創刊するというので参加することになりました。

 いま創刊以来『住宅建築』は312号になりました。まさか平良さんと26年間も付きあうようになるとは、まったく思ってもいませんでした。最初に彼と話したことは「雑誌をつくってつぶすのも疲れるね。私もあなたもいい年だし」。私は45歳、彼は50歳です。始めるときは、「せめて最低で60号(5年)、できれば120号(10年)までいきたいね」と言っていたんです。雑誌をつくっている本人たちはね、いい本をつくっていると思っていますが、なかなか人が買ってくれないわけですよ。ということは読んでもらっていないということです。そうでありながら、編集者たちは「編集狂」とでも言うような「信仰」がありまして、「自分だけはいい本をつくっているんだ」と信じているわけです。いまは私どもも反省しておりますが、独りよがりだったに違いない。いろんな雑誌をやってきてわかったことは、対象、というとこの場合「建築・建築家」と「読者」のふたつがありますが、読者におもねない、という決意まではよかったんですが、いつの間にか「読者を忘れている」ということになってしまったのはよくなかった。そして東京中心の都市型に偏していた。ジャーナリズムは明治以降ずっとそうですがね。


立松久昌著
『家づくりの極意―居心地のいい住まいの設計術』
(コンフォルト・ライブラリ 2400円)

『住宅建築』創刊―― 四つの柱

 それで平良さんと『住宅建築』を創刊するときに四つの柱を話しました。

 第一は「新人を発掘しよう」――有名無名を問わないということ。有名な建築家だけが人間じゃあない。もっと門戸を開放しよう、と。

 第二は「伝統的な技術を継承し、職人に光をあてよう」――近代化によって消えていったものを復権させよう。われわれはこれまでも、職人たちの技術によって生きてきたのではなかったか。来月、この塾で田中文男棟梁が講師として見えますが、田中棟梁のような地に足をつけて技術を守っている人間に光をあてようじゃないか。

 第三は「都市中心主義との決別」――東京だけでなく、地域に根ざした住まいづくりを考えている建築家に光をあてよう。

 そして最後に「靴をすり減らすことを厭うまい」――偉い先生と電話で話して決めるのではなく、自分の足で歩き、自分の目で確かめてその現場を見てから、作品を自分の善しあしの基準に組み込んでから評価しよう。

 以上の四つを確認したわけです。といっても、それを実現できたのも、いろんな人と出会えたからなんですね。

 私は建築学科を出ていませんし、彰国社に入ったのも24歳です。浪人したり演劇や美術畑をうろうろしたものですから人より遅かった。でも遅れるのは決して悪くない。人以上に、他分野の人やものに接することが出来ますからね。必ずしもそこに長くいて偉くなる必要はまったくない。あとは智恵と度胸だけで生きてきましたね(笑)。
 現場に行くと、まず建築を見ますね。その時、「まず正面から見なさい。次に外をひとまわりしなさい。そして入っていきなさい」と先輩から学びました。これが建物に対する礼儀ってものだと。建築家に対する礼儀でもあるかもしれませんが、基本的に建築はモノとして「乳離れ」しています。乳離れしないのは建築家の名前にベタベタしているからかもしれませんが、本来建築は自立したものであるべきです。建主のものだけでもない。風景として町並みの中に埋込まれ、みんなのものという意味も出てくる。
 われわれは新しい民家をつくるべきだと思います。住宅であるだけでなく、民家をね。民家は伝承していくものですよ、それがすぐにつぶれちゃったらまずいでしょう。共有の財産として百年くらいは持たせたいでしょう。
 コンクリートはいつまでももちます、なんて言っていた。防火にすぐれていると。でも焼けないのは外だけでしょ。そして河原の砂がなくなったものだから海の砂を使って塩分が入ってしまって、25年位たったらもうホロボロになってきた。
 一方、国産材が売れなくなってきたもんだから、今度は林野庁あたりが「ぬくもりが大切」などと言い出して文部省まで「木の学校を建てましょう」なんて言ってる。こんなことで子供がよくなる可能性なんかないね。(笑)。根本は人と人ですよ。まあ、どういう出会いを人ができるかが大切ということを言いたいわけです。

 

純化の建築家――高須賀晋について

 それでは三人の建築家の話に移ります。
 まず高須賀晋。この男を私はこう評しています。「“いき”が漂う純化の手法」。
 彼との出会いは、私が彰国社にいた27〜8歳のころでした。

 高須賀さんは二つ下だから25〜6歳。あるとき藤井正一郎という社会派の建築評論家と飲んでいた。ベロベロになって新橋の裏の赤提燈の、六人も座ればいっぱいになる店に入った。「あーら、いらっしゃい」。そこでしばらく飲んでいたら、変な男が隣に入ってきた。そしたらママが「あーら、この人、高須賀ちゃんていうのよ。清水建設の設計やってる人」と紹介する。

 とりあえず私が「まあ、一杯どうだい」とお猪口を渡そうとしたら、「コップでお願いします」ときた。こっちは貰い酒だぜ。(笑)
 安い店は徳利に酒は一合なんて入ってない。中身が全部コップに入っちゃった。男はにこにこ笑ってる。
 「おめえさん、若いのにできるじゃねぇか」と右肩を叩いたら、カチンと鳴った。酔目をこらして見ると、その左手は指が小指と薬指の二本しかなかった。みなさんもやってみたらわかるが、二本指ではお猪口は持てないんです。だからコップで飲むんだ。
 私は飛び下がって謝った。「知らなかったとはいえ、失礼をしました」と。
 しかし、右手は義手、左手も二本指。どうやって設計をするんだと思った。「あなたは左利きだったの?」と聞くと、「いえ、右利きです」と笑う。
 飲み屋から藤井さんを送ってもう一度戻ってみたら、まだ彼は飲んでいた。
 恐るおそる「どうしてそんな体になったんですか」と訊くと、交通事故だという。安田学園という工業高校を卒業して2年目の二十歳の時に半死半生の事故に遭った。

 その時から彼は2本の指で筆を持ち、清水建設でパースを描いて「パースの名人」といわれていた。5年でパース室長になりました。そして彼はアルバイトで、美濃紙の上に文鎮を置き、フリーハンドで設計をはじめた。
 そんなわけでぼくと彼は妙に仲良くなった。
 清水建設との関係があったので高須賀さんは「高矢晋」という名前で、処女作の「二瓶邸」を私のやっていた『建築文化』に発表しました。
 そういうようなことで彼とはずっと付きあっていて、彼の作品は全部私は見ております。そして私たちの『住宅建築』に発表してきました。
 彼は飲み手ですから、建主は飲み屋の関係が多いんですね。彼はわりあい自分勝手にものをつくる。その特徴を言えば、彫刻家のジャコメッティが「つくればつくるほど細くなる」と言われたように、高須賀は「つくればつくるほど単純化してゆく」。この人のプランニングは海苔巻きみたい。ロの字型のプランで床高を高くする。それと一文字型で単純に長い作品。そこにずうっと縁を回す。1m30センチくらいの濡れ縁です。約1寸5分(45ミリ)×2寸(60ミリ)の材を縦に、狭いピッチで張っている。実に足触りが良く、非常に丈夫です。そして時間が経つと、半分位が濡れて外側が銀色に風化し、半分が木の色がやや黒ずんで残るんですね。きれいですよ。

 

高須賀晋(たかすが すすむ)

1933年東京都生れ。51年安田学園卒業。清水建設勤務を経て、70年、高須賀晋一級建築士事務所設立。80年「生鬪学舎」で日本建築学会賞作品賞を受賞。

主な著書・作品集に『日本の集落・全三巻』『建築細部詳細/高須賀晋作品集』『高須賀晋住宅作品集』(いずれも建築資料研究社)がある。

「多古の家」と「生鬪学舎」

 高須賀晋にはいろんないい作品がありますが、千葉県の成田の先の「多古の家」。これは猛烈に安い。今から15〜6年ほど前で「設備入れて坪20万円」です。だから屋根はスレートで葺くしかない。スレートはビスの穴から雨漏りがしても、「60度の勾配にすれば、日当たりがいいから乾く」と言うんだよね(笑) 。「垂れる前に傾斜によって落ちていくんだ」ってね。本当にそうだった。お金のない油絵描きさんのアトリエでした。1960年位までよく言われた「ローコスト」という言葉が死後になっていた頃です。

 もうひとつの代表作が三宅島の「生鬪学舎」です。1980年の日本建築学会賞をとっています。今回の噴火でも燃えていないようですね。
 これは線路の枕木を7000本をただでもらって、運送費はかかりますが、それで全部、屋根まで葺いてしまった。枕木って7尺(約2.1m)しかないんですよ。通し柱もできるわけがない。それをまとめて柱にしている。それで3階建て。3階は屋根裏で届けているようですが。屋根は枕木をスライスしてそれを全部使っている。ちょっと組積造の感じがしました。それが建築学会賞をもらう。審査員も目がある人が揃っていたんですね。面白いのは、「通し柱がなくてもできる」ってこと。しかしこれは建築基準法には違反している。違反なものがなぜ通ったかというと、三宅島まで遠いので調べに行かないんだね(笑)。
 大工はボランティア1人。あとは「夜間中学を存続する会」の活動家たち。資金集めに女性は金粉ショーで稼ぎ、男は肉体労働で稼いだという。それで資金をつくっちゃった。これは今、誰も住んでいないんだが、いつかぜひ見て欲しいです。

 

民家再生・信州の降幡廣信

 次に降幡廣信を紹介したい。彼には「民家再生に賭け地域活性化に一役」と私は題をつけました。
 南安曇郡三郷村の出身で、 胸をわずらって東京にいて、遅れてスタートしています。いつだったか、取材に行ったときに嘆いているんですね。「立松さん、地元の本棟造りの民家が次々と消えていっているんです」と。で私は言った。「あなた日本には一級建築士なんて万といる。そんな連中に伍して新築をやる必要はないでしょ。民家も、銘柄が良くなきゃ文化財として残りはしない。しかし、立派でなくても民家は民家だ。庶民が住んでいる民家の方が、人間の問題としては大事じゃないか。民家を1軒か2軒、直してみたらどうか。1年に2軒やれば10年たてば20軒残る。日本の民家が20軒残るってのはすごいことじゃないか」と。そうしたら「年に5軒くらいならなんとかできる」と言う。それは態度がでかいんじゃないかい、と思ったが、次に行ってみたら本当にやっていた。
 実は降幡さんは祖父が材木屋、父が工務店という家柄だった。そこで一級建築士事務所を開いた。
 民家をやろうといった時にとても大事なのは、地域に根づいたネットワークがあるかということ。田舎では建築家と言っても「○○の△△ちゃん」なわけだ。そうすると地元の人は安心して任せるんだな。その意味で、彼の系譜は民家の仕事にうってつけなんです。そして先代からの材木がいくらかはある。それをもってきて使えば、民家再生も手早く、しかも安くできる。

 民家再生の中心は屋根です。これは直さなければならない。それ以外は、民家は大きいですから全部を直す必要はない。居間(オエ)とかお勝手とか、水廻りを中心に手を入れればいい。
 それから寒さだ。
 野沢菜っておいしいじゃない? でもつくるのは大変な寒さの中、外気と同じ零下何度の中で氷を割って喰うなんてこと、嫁さんもだんだんしなくなる(笑)。すくなくとも居住空間の温度差をなくすこと、これが大切。囲炉裏だって背中は寒いんだから。
 もうひとつの問題は歴史的建造物をどう直すか、です。そういう時は大河直躬先生(東京大学名誉教授)に見てもらうといいよ、と薦めました。
 そんな降幡さんの仕事を『住宅建築』で紹介したら、松本の彼の事務所に、大分から『住宅建築』を手にして若夫婦が赤ちゃんをおぶってやって来たという。そして「うちを直して欲しい」と。それで私に電話が来た。「信州から海を越えて九州まで行くべきかどうか」と悩んでいた。民家の再生には独特のノウハウがありますから、大工も一緒に連れていくことになるんですね。「地元の大工と連動させるためにもいい機会だ」と申上げました。
 その家は大分県臼杵市の小手川家といい、野上弥生子の生家だったんですね。とても大きな醤油・味噌・酒をつくる旧家でした。行ってみたら、商家・事務棟・酒蔵といった古い建物がずらーっと並んでいる。そのうちの住宅一つを直して欲しい、という依頼だった。どうしてこれらみんなを直さないのか。そこで夜、町の偉いさん達を呼んでもらい話をした。「臼杵は石仏だけでなく、こうした古い街並みを直し、弥生子記念文学館もきちんと直したらずっとよくなるのではないですか」と。それで一連の仕事が始まったんです。
 最初の住宅と町並みは降幡さんが設計し、弥生子記念文学館などは、地元の佐々木工務店が直接やり、降幡さんは監修というかたちになりました。降幡さんの仕事が「点」から「面」になったんです。

 

降幡廣信(ふりはた・ひろのぶ)

1929年長野県生れ。53年関東学院大学建築学科卒業。関東学院大学建築学教室助手を経て、家業の山共建設を継承(三代目)し、63年降幡建築設計事務所設立。90年日本建築学会賞受賞。

主な著書に『民家の再生−降幡廣信の仕事』(建築資料研究社)、『現代の民家再考』(鹿島出版会)、『民家再生の設計手法』(彰国社)などがある。

住まいとともに家族も甦る

 民家を直すということで思い出すと、松本の「草間家」があります。
 信州の大きな家に老夫婦二人が家具に取り囲まれるようにして、真っ暗な中で暮らしていた。畳が全部上っている。床には金タライなんかが転がっていて危ない。声をかけても出てこずに、奥で80歳くらいに見える老夫妻が「だれ」と言う。実はまだ70位だったんですがね。それを直そうということになった。金はどうするか。地所を山ほど持っている。しかし代々の地所を売ると「先祖に申し訳が立たない」と思っていて手放さないという。そこの息子は消防署に勤めているんだが、家から通えるのに別のアパートに住んでいた。
 そこで息子が「家がきれいになったら帰ってくる」ことにして、親に地所を売らせたんです。全部売る必要はない。本家の土地には手を付けず、飛び地だけを売ったんです。そして見事に再生した。
 すると同時に家族(老夫婦、子供夫婦、孫2人)の生活が復活した。そして老人はあきらかに若返った。70歳位だから私とたいして変わらないんだから。民家を直すということは、単に建物が甦るというに留まらない働きがあるように思います。家族関係が修復される、優しさや、シャキシャキした感じも甦ることになるんです。
 降幡さんは、すべてが文化財クラスではないが、すでに300軒以上やっています。そんな降幡さんは、今とても気にしていることがあります。最近「民家再生○○」「リサイクル○○」「古材○○」云々とあちこちで言い出した。あれは、古い材木をちょろっと使って、それで「おお民家!」と言ってるようなものでしょう(笑)。こういう風潮にはちょっと気をつけたいですね。

 

旅をする建築家――吉田桂二

 さて次にぼくと同年配の吉田桂二を紹介しましょう。彼を評して「花は旅人(たびにん)、実(み)は人間連絡網(ヒューマンネットワーク)」。
 連合設計社市谷建築事務所を立上げた四人組、吉田秀雄・小宮山雅夫・吉田桂二・戎居(えびすい)研造の4人で、1957年のことです。
 どうしてあの時代に食えたのか。それは戎居さんが壷井栄の甥っ子だった。戦争があろうとなかろうと、坊主・医者・小説家だけは生き延びるんですね。壷井栄の友人に物書きはいっぱいいた。そこから仕事がまわってきてたんです。それが一段落すると、今度は小宮山さんが熊本の出身で絵描きの志があって、画家や仲間を知っていた。そのからみで仕事をたくさんつくった。それが一通りすむと、吉田桂二の出番。岐阜出身で、木が好きで旅が好きでデザインサーベイをよくやり、絵がうまかった。そのころから地域活性化ということを考えていた。年上の吉田秀雄さんは組織の調整役。
 吉田桂二さんのことを「たびびと」と言ったら、「“たびびと”では通過するだけだ。オレは目的があって行く、だから“たびにん”にしてくれ」と言った。やくざっぽくて格好いいしね。彼の旅は風景、建物、佇(たたず)まいを中心にすえて見に行くんだが、そのうちに「やあ、どうも、美味しそうですね」なんて、そこの人々と交わり仲良くなる。
 もう一人、“たびにん”といえば俳優の小沢昭一がいますね。
 大道芸を調べるとかいって山ほど旅している。小沢さんの旅は、人を目当てに行く。そして背景の風土や文物に入ってゆく。旅の入り方は違っても、その根っこは同じだと思う。

 

吉田桂二(よしだ・けいじ)

1930年岐阜県生れ。52年東京美術学校(現東京芸術大学)建築科卒業。

57年連合設計社設立。工学博士。

大平宿保存再生協議会理事、全国町並み保存連盟顧問などを務める。91年「飛彈の匠文化館他一連の修景計画」で吉田五十八賞特別賞、92年「古河歴史博物館と周辺の修景」で日本建築学会賞作品賞を受賞。著書は『間違いだらけの住まいづくり』(彰国社)、『町並み・家並み事典』(東京堂出版)、『からだによい家・100の知恵』(講談社)、『保存と創造をむすぶ』(建築資料研究社)など多数。

地域の風景と向き合う

 こうした建築家たちと付きあってやはり思うのは、地域にはそれなりの風景がある、ということです。ここにいる方だって在所がみんな違う。降幡さんのようにやろうと思ったら、まず自分のふるさと、心のふるさとに帰って、そこでよく見たり聞いたり試したりしたらいいと思います。

 この中に富山の塾生がいましたね。あちらには八尾の「風の盆」がある。越中おわら節を歌うことは私もできます。が知っているだけで、実は心が入っていない。東北弁の真似はできるが、本当の言葉にはついていけないですよ。それなりの風景に属して言葉というものも生きている。それと同じに人々も生きている。だから、やっぱりみなさん一度ふるさとにお帰りなさい、お帰りになって考えて下さい、と言いたい。本を読む以上に、ふるさとをもっと知らないとダメじゃないかしら。
 みなさんがどうやって生きていくか判らないけれど、いろんな形でものを見ていく必要があるでしょう。私はもう70だから10年生きればいい方です。そういう時に、残りの時間をどう使えるか。20歳位のあなたたちだったら60年、40歳になったら40年。これは引き算なんだ。あまり足し算はないんだな、これが(笑)。どんなに生きてもこの幅はたいして変わらない。この中であるがままに自分が生きられるか、を考えるんです。

 

人生の「余白」をどう活かすか

 人生には「いい加減な部分」というものが存在する。「ちょっと飲みに行くかい?」という、何の意味もない、不自由でない余白の時間。こういう時間をうまく使うことができると生きる達人になれるような気がします。

 謝赫という人が東洋画の精神についてこういうことを言っている。「白紙も画のうちなれば心して塞ぐべし」。東洋画は必ず余白があり埋め尽くされることはないでしょう。われわれの人生も、心して塞げばいいんじゃないか、と思うんです。

 みなさんにも自分の居場所、根拠地があるでしょう。建築史家の伊藤ていじさんが「土地には土地の歴史があり、町や村には住む人の哀歓に充ちた生活の痕跡がある。民家はその土地の文化の身分証明書のようなものだ」と言っている。身分証明というのはふるさとに対してです。官憲に対してじゃない(笑)。身分証明書を持たないでは、ふるさとを愛することにはならないでしょう。そう思うと、単なる知識よりも、重要なことをつくりだせる。知的好奇心をもち、しかしそれをひけらかさない。知的好奇心とは、ひらめきの可能性を持てることです。その知的好奇心を、どう持続するか、が大切。だれだって一回くらいはひらめきますよ。それを続けることが大切なんです。

 それから、吉田桂二さんからも伝えてくれと言われていることですが、旅だけは独りですること。もし二人以上で行く時には途中で一度分れること。そして前もって調べてゆくことがよろしいようです。私たちも余白を大事にして、旅をしようではありませんか。

 こんな話で役に立ったかどうか。ご静聴をどうもありがとうございました。(拍手)

受講生の感想から

●一人旅に出よう

何も申し上げることはございません。酒が飲めるということは、こんなにも豊かな世界を開示してくれるのか、ということを改めて認識いたしました。人生における「余白」の話は我が意を得たりでした。私も「居場所」にとことんこだわっていきたい。今年はかならず一人旅に出ることにいたしましょう。【東京・安藤文隆】

●大事に住み継いでいきたい

寄席で落語を聞いている様な小気味よい語り口で、とても楽しかったです。家というのは、住み手が居て建てる人がいて、それをとりまく人がいて、まわりの環境があって、経過する時があって、そして民家となっていくのですね。我が家が、良い民家(?)になる様、努力というか、大事に住み継いでいきたいです。【愛知・鈴木博子】

●誇りを感じた瞬間

立松先生の軽妙な語り口に「知らず知らず乗り出して聞き入る」そんな講演会でした。楽しかった2時間ほどの講演の中で心に強く響いたのは、「我々は民家を造っている」という言葉と、「民家はその土地の身分証明書のようなものである」という二つの言葉です。「民家」という言葉には、長い月日を人間と共に生きてきた歴史の重みがかさなって響きます。自分たちが今設計している住宅が、何十年か後の人たちに同じ思いで表現されるものになり得るのか……。責任の重さを再確認した一瞬でした。同時に、地方に生きる建築士の役割に誇りを持った瞬間でもありました。【和歌山・中村伸吾】

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