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この内容は、2001年2月10日(土)に行われた神楽坂建築塾坐学の講演をテープ起こしの上、編集したものです。立松氏は2003年9月に亡くなられました。慎んでご冥福をお祈りいたします。【神楽坂建築塾事務局】
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私が立松です。
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建築も人との出会いから生まれる 私はなぜこの本を上梓する気になったのか。建築がまずあって人がそこに住むのではなくて、「人が居て住まいが在る」という思いが強かったからです。 私が何をやって生きてきたのかをまずお話します。 私は彰国社に約8年いて編集をやっていました。月刊『建築文化』をやって単行本も出したりしました。それから宮内嘉久さんに誘われて月刊『国際建築』という雑誌が大判(A4判)に切り替わるところから2〜3年やりまして、それが廃刊になりました。しょうがないからうろうろしていたら平良敬一さんに出会いました。ちょうど『SD』をやっていまして、頼んでそこで16頁やら32頁をもらい自由に立上げていいということになりました。それで生活していたら平良先輩が『SD』を辞めるということになり、1975年に『住宅建築』を創刊するというので参加することになりました。 いま創刊以来『住宅建築』は312号になりました。まさか平良さんと26年間も付きあうようになるとは、まったく思ってもいませんでした。最初に彼と話したことは「雑誌をつくってつぶすのも疲れるね。私もあなたもいい年だし」。私は45歳、彼は50歳です。始めるときは、「せめて最低で60号(5年)、できれば120号(10年)までいきたいね」と言っていたんです。雑誌をつくっている本人たちはね、いい本をつくっていると思っていますが、なかなか人が買ってくれないわけですよ。ということは読んでもらっていないということです。そうでありながら、編集者たちは「編集狂」とでも言うような「信仰」がありまして、「自分だけはいい本をつくっているんだ」と信じているわけです。いまは私どもも反省しておりますが、独りよがりだったに違いない。いろんな雑誌をやってきてわかったことは、対象、というとこの場合「建築・建築家」と「読者」のふたつがありますが、読者におもねない、という決意まではよかったんですが、いつの間にか「読者を忘れている」ということになってしまったのはよくなかった。そして東京中心の都市型に偏していた。ジャーナリズムは明治以降ずっとそうですがね。
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『住宅建築』創刊―― 四つの柱 それで平良さんと『住宅建築』を創刊するときに四つの柱を話しました。 第一は「新人を発掘しよう」――有名無名を問わないということ。有名な建築家だけが人間じゃあない。もっと門戸を開放しよう、と。 第二は「伝統的な技術を継承し、職人に光をあてよう」――近代化によって消えていったものを復権させよう。われわれはこれまでも、職人たちの技術によって生きてきたのではなかったか。来月、この塾で田中文男棟梁が講師として見えますが、田中棟梁のような地に足をつけて技術を守っている人間に光をあてようじゃないか。 第三は「都市中心主義との決別」――東京だけでなく、地域に根ざした住まいづくりを考えている建築家に光をあてよう。 そして最後に「靴をすり減らすことを厭うまい」――偉い先生と電話で話して決めるのではなく、自分の足で歩き、自分の目で確かめてその現場を見てから、作品を自分の善しあしの基準に組み込んでから評価しよう。 以上の四つを確認したわけです。といっても、それを実現できたのも、いろんな人と出会えたからなんですね。 私は建築学科を出ていませんし、彰国社に入ったのも24歳です。浪人したり演劇や美術畑をうろうろしたものですから人より遅かった。でも遅れるのは決して悪くない。人以上に、他分野の人やものに接することが出来ますからね。必ずしもそこに長くいて偉くなる必要はまったくない。あとは智恵と度胸だけで生きてきましたね(笑)。
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純化の建築家――高須賀晋について それでは三人の建築家の話に移ります。 高須賀さんは二つ下だから25〜6歳。あるとき藤井正一郎という社会派の建築評論家と飲んでいた。ベロベロになって新橋の裏の赤提燈の、六人も座ればいっぱいになる店に入った。「あーら、いらっしゃい」。そこでしばらく飲んでいたら、変な男が隣に入ってきた。そしたらママが「あーら、この人、高須賀ちゃんていうのよ。清水建設の設計やってる人」と紹介する。 とりあえず私が「まあ、一杯どうだい」とお猪口を渡そうとしたら、「コップでお願いします」ときた。こっちは貰い酒だぜ。(笑) その時から彼は2本の指で筆を持ち、清水建設でパースを描いて「パースの名人」といわれていた。5年でパース室長になりました。そして彼はアルバイトで、美濃紙の上に文鎮を置き、フリーハンドで設計をはじめた。
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高須賀晋(たかすが すすむ) 1933年東京都生れ。51年安田学園卒業。清水建設勤務を経て、70年、高須賀晋一級建築士事務所設立。80年「生鬪学舎」で日本建築学会賞作品賞を受賞。 主な著書・作品集に『日本の集落・全三巻』『建築細部詳細/高須賀晋作品集』『高須賀晋住宅作品集』(いずれも建築資料研究社)がある。 |
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「多古の家」と「生鬪学舎」 高須賀晋にはいろんないい作品がありますが、千葉県の成田の先の「多古の家」。これは猛烈に安い。今から15〜6年ほど前で「設備入れて坪20万円」です。だから屋根はスレートで葺くしかない。スレートはビスの穴から雨漏りがしても、「60度の勾配にすれば、日当たりがいいから乾く」と言うんだよね(笑) 。「垂れる前に傾斜によって落ちていくんだ」ってね。本当にそうだった。お金のない油絵描きさんのアトリエでした。1960年位までよく言われた「ローコスト」という言葉が死後になっていた頃です。 もうひとつの代表作が三宅島の「生鬪学舎」です。1980年の日本建築学会賞をとっています。今回の噴火でも燃えていないようですね。
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民家再生・信州の降幡廣信 次に降幡廣信を紹介したい。彼には「民家再生に賭け地域活性化に一役」と私は題をつけました。 民家再生の中心は屋根です。これは直さなければならない。それ以外は、民家は大きいですから全部を直す必要はない。居間(オエ)とかお勝手とか、水廻りを中心に手を入れればいい。
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降幡廣信(ふりはた・ひろのぶ) 1929年長野県生れ。53年関東学院大学建築学科卒業。関東学院大学建築学教室助手を経て、家業の山共建設を継承(三代目)し、63年降幡建築設計事務所設立。90年日本建築学会賞受賞。 主な著書に『民家の再生−降幡廣信の仕事』(建築資料研究社)、『現代の民家再考』(鹿島出版会)、『民家再生の設計手法』(彰国社)などがある。 |
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住まいとともに家族も甦る 民家を直すということで思い出すと、松本の「草間家」があります。
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旅をする建築家――吉田桂二 さて次にぼくと同年配の吉田桂二を紹介しましょう。彼を評して「花は旅人(たびにん)、実(み)は人間連絡網(ヒューマンネットワーク)」。
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吉田桂二(よしだ・けいじ) 1930年岐阜県生れ。52年東京美術学校(現東京芸術大学)建築科卒業。 57年連合設計社設立。工学博士。 大平宿保存再生協議会理事、全国町並み保存連盟顧問などを務める。91年「飛彈の匠文化館他一連の修景計画」で吉田五十八賞特別賞、92年「古河歴史博物館と周辺の修景」で日本建築学会賞作品賞を受賞。著書は『間違いだらけの住まいづくり』(彰国社)、『町並み・家並み事典』(東京堂出版)、『からだによい家・100の知恵』(講談社)、『保存と創造をむすぶ』(建築資料研究社)など多数。 |
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地域の風景と向き合う こうした建築家たちと付きあってやはり思うのは、地域にはそれなりの風景がある、ということです。ここにいる方だって在所がみんな違う。降幡さんのようにやろうと思ったら、まず自分のふるさと、心のふるさとに帰って、そこでよく見たり聞いたり試したりしたらいいと思います。 この中に富山の塾生がいましたね。あちらには八尾の「風の盆」がある。越中おわら節を歌うことは私もできます。が知っているだけで、実は心が入っていない。東北弁の真似はできるが、本当の言葉にはついていけないですよ。それなりの風景に属して言葉というものも生きている。それと同じに人々も生きている。だから、やっぱりみなさん一度ふるさとにお帰りなさい、お帰りになって考えて下さい、と言いたい。本を読む以上に、ふるさとをもっと知らないとダメじゃないかしら。
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人生の「余白」をどう活かすか 人生には「いい加減な部分」というものが存在する。「ちょっと飲みに行くかい?」という、何の意味もない、不自由でない余白の時間。こういう時間をうまく使うことができると生きる達人になれるような気がします。 謝赫という人が東洋画の精神についてこういうことを言っている。「白紙も画のうちなれば心して塞ぐべし」。東洋画は必ず余白があり埋め尽くされることはないでしょう。われわれの人生も、心して塞げばいいんじゃないか、と思うんです。 みなさんにも自分の居場所、根拠地があるでしょう。建築史家の伊藤ていじさんが「土地には土地の歴史があり、町や村には住む人の哀歓に充ちた生活の痕跡がある。民家はその土地の文化の身分証明書のようなものだ」と言っている。身分証明というのはふるさとに対してです。官憲に対してじゃない(笑)。身分証明書を持たないでは、ふるさとを愛することにはならないでしょう。そう思うと、単なる知識よりも、重要なことをつくりだせる。知的好奇心をもち、しかしそれをひけらかさない。知的好奇心とは、ひらめきの可能性を持てることです。その知的好奇心を、どう持続するか、が大切。だれだって一回くらいはひらめきますよ。それを続けることが大切なんです。 それから、吉田桂二さんからも伝えてくれと言われていることですが、旅だけは独りですること。もし二人以上で行く時には途中で一度分れること。そして前もって調べてゆくことがよろしいようです。私たちも余白を大事にして、旅をしようではありませんか。 こんな話で役に立ったかどうか。ご静聴をどうもありがとうございました。(拍手) |
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●一人旅に出よう 何も申し上げることはございません。酒が飲めるということは、こんなにも豊かな世界を開示してくれるのか、ということを改めて認識いたしました。人生における「余白」の話は我が意を得たりでした。私も「居場所」にとことんこだわっていきたい。今年はかならず一人旅に出ることにいたしましょう。【東京・安藤文隆】 ●大事に住み継いでいきたい 寄席で落語を聞いている様な小気味よい語り口で、とても楽しかったです。家というのは、住み手が居て建てる人がいて、それをとりまく人がいて、まわりの環境があって、経過する時があって、そして民家となっていくのですね。我が家が、良い民家(?)になる様、努力というか、大事に住み継いでいきたいです。【愛知・鈴木博子】 |
●誇りを感じた瞬間 立松先生の軽妙な語り口に「知らず知らず乗り出して聞き入る」そんな講演会でした。楽しかった2時間ほどの講演の中で心に強く響いたのは、「我々は民家を造っている」という言葉と、「民家はその土地の身分証明書のようなものである」という二つの言葉です。「民家」という言葉には、長い月日を人間と共に生きてきた歴史の重みがかさなって響きます。自分たちが今設計している住宅が、何十年か後の人たちに同じ思いで表現されるものになり得るのか……。責任の重さを再確認した一瞬でした。同時に、地方に生きる建築士の役割に誇りを持った瞬間でもありました。【和歌山・中村伸吾】 |