神楽坂建築塾 第六期 修了制作

ジェネレーションウェーブ現象 現代の住宅の貧しさとその理由1

神楽坂建築塾塾生 田中 隆義

目次

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 メンテナンスのいらない家を、と望む建主はさして珍しくもないだろうが、洗濯の不要な衣服を、と本気で探し回る人はかなり珍しいといえるだろう。
 田植えをし、草取りをし、いざ秋になって稲刈りをせず放置すれば、ときには罰当たりとそしりをうけるだろうが、植林し、枝打ちをし、いざ伐採という段になって世間から放置されていることに気づく林業家という構図はありそうなものに思われる。
 皮肉をいっているのではなくて、現代の我々が住宅や、その周辺の状況を実感をともなって受け止める、といったところからとても離れたところにいる、という現状を前提として知っておきたいと思っているのである。
 もちろん我々のほとんどが、田んぼに立つこともなく飯を食っているのだし、酒を醸すこともなく酔っ払うわけで、ひとり住宅ばかりが特殊とは言えまいが、それも含めて我々が持っている貧しさ、と、あえてひとくくりにして切り取ってみると、その切り口から見える風景はなかなかに寒々しく、とても望んで手に入れたものとは思われない。
 いまや、ほとんどの人々はベニヤのフローリングの上で、ビニルクロスに囲まれて暮らしている。そして、公に認められた事実として、それらの建材は微量ながらも毒の成分を揮発し続けている。
 私は豊かさの前提として、選択肢の多様性を保障することが大切だと思っているが、建主たちはベニヤやビニルクロスを本当の意味で選択したのだろうか。設計家や施工者が、みんながそうだったからと、責任回避を図ることもできようけれど、数十年単位の時間軸にてらしたり、外国の例、数百キロメートルの空間軸に照しあわせたりすれば、我々建築関係者の常識がかなり風変わりで特殊なものであることは明らかで、より良い住まいを提供したい、という思いが第一主義ではなかったことがかいま見える。より良い住まい、などと発言すれば、なにを良しとするかは人それぞれでしょう?と切り返されるのが常だが、本当にそうだろうか。人それぞれが良い建物を知っていて、それぞれの価値観が対立して、結果として町並は混乱し続けているのだろうか。おそらくそうではあるまい。おそらく我々の価値観は多様化していない。あれも良いこれも欲しいと、浅い興味が目移りするばかりのなかで、価値あるものもそうでないものも全て相対化され、信ずるものを持てない我々は荒涼とした風景のなかに佇んでいる、というのが本当のところではないだろうか。
 「新しいものほど良い」というイメージは工業化社会の誘う実態のない甘いワナだが、等しく「古いものほど良い」というイメージも具体的な知識と技術の裏付けなしでは、消費され、飽きて捨てられるトレンドにすぎなくなる。当たり前の住まいを手に入れるための経済的な負担が恐ろしいほど大きいといった点で我々は貧しく、本当の意味での選択肢が少ないといった意味で我々は貧しく、そうして手に入れた住まいが諸外国に例を見ないほど短い寿命しか持たないという点で貧しい。そしてその総和として、現代の住まいが我々に幸福をもたらしているという点で疑問がある。ともあれ、現状、いかに我々が貧しいかを述べているが、今回の主題は我々がどう貧しいのかではなく、なぜ貧しいのかを考え、それを打開するためのヒントを得ることにある。前置きが長くなって申し訳ない。

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2.

 例えば、いくつかの要素が考えられる。キリスト教特有のモラルを資本主義とセットにして輸入しなかった片手落ちさ加減とか、西欧発祥の建築学なるものを東南アジアのこの国にたいしてアレンジもせずにまるのみにさせている消化不良さ加減だとか、経済効率の名の下に、捨ててはならなかったはずの伝統や文化まで思い切りよく切り捨てて後で後悔している浅はかさ加減だとか。
 けれども私がここで取り上げたいのは、どんな世の中の流れもそれを支持した世代があったし、逆にいえばその世代が持っている特有の性格が時代の性格を方向付けるだろうという想像で、さらにその性格は両隣の世代には似ずに、親世代から子世代へと波のように伝わっていくのではないか、という仮設である。
 例えば先の戦争で一番ひどいめにあったのは大正生まれを中心とする当事者世代だろうけれども、その子供たち、いわゆる団塊の世代が世の中に出ていくときに先輩、上司として彼らの前に立ちふさがったのはかつての小国民世代、幼い心に軍国思想を叩き込まれたそんな世代ではなかったか。学校で教科書に墨を塗らされながらも、心の中ではなにを考えていたかはそれぞれの家庭でやがてどんな子育てをしたかで察しがつく。つまり今の40代の世代がその子供たちで、彼らはさらにその子供たちに雄介や良太などといったネオクラシカルスタイルの名前をつけている。保守的でやや右傾向なかつての小国民世代と、大正デモクラシーの気配のある世代を親に持つことでラジカルな性格をも持ち合わせている団塊の世代が社会という共通の土俵に上がったとき、なにかと対立しがちな価値観のほとんどを保留とし、経済効率という唯一の共通言語をもとに協働を進めた結果、その負の側面として安物の拝金主義がうまれたのではなかったか。ハウスメーカーの台頭も新建材の普及もそれ自体は良いことでも悪いことでもないはずだが、価値判断を停止し、経済的に疾走しつづけた真空状態と重なったとき我々の住まいにたいする感覚の壊死が始まったと考える。
 そして今それらのしがらみから離れて、新しい住まいの価値観を急いで作り出さなくてはならない。リカちゃんハウスで遊んだ世代がショートケーキハウスを作った比ではない、ベニヤのフローリングとビニルクロスを住まいの原体験とする世代が続々と住まいを建て始めているのだから。

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