文・ゆふねなおこ

日々を歌う 46

奈良さんという人


 

 信州の中野市に奈良久雄さんという人形師がいる。私は奈良さんの作る、童子や愛らしい動物の土人形が大好きで、彼の住む信州中野という土地を何となくいつも気にしていた。奈良さんに出会った人の誰もが、彼の不思議な人間的魅力を口にした。だからといって、訪ねて行くことなど思ったことはなかったが、去年の秋、信州へ出向く用事ができ、思いきって奈良さんのお宅を訪ねてみることにした。前もって電話を入れると、
「わざわざ東京から来て下さるのなら、小さなものでもひとつ作っておきましょうか」と静かな声で言って下さった。奈良さんの人形は大変な人気があり、二、三年待っても手に入らないという話をよく聞いていた。それなので、まさかお人形を譲ってもらえるとは夢にも思っていなかった。

 もう十月も半ばであったが、奈良さんの家の玄関先にはガラスの風鈴が吊るされてあって、それがりんりんとよく鳴った。ドアは開け放してあったので大きな声で「ごめんください」と言ってみたが返事はない。もう一度声をかけると、小さな声で
「どうぞ、お入りください」と言う。そろりそろりと玄関を上がると、奥の暗い部屋に奈良さんと思われる初老の男性が座っており、大きな人形の絵付けをしているところだった。たっぷりと黒い顔料を筆につけて滴らせながら塗っている。するとそこへ玄関から大きな声がした。
「奈良さん、人形はまだ出来上がらないかね?」そこには大柄な男性が立っていたが、私の顔を見ると「今日も無理だな」とつぶやいて姿を消してしまった。奈良さんは黒い顔料を塗り終えると私のところへやって来て
「お客さんなのに挨拶もしませんですみませんね」と人なつこく笑って
「こんな汚いところでびっくりしたでしょう?」と言った。確かきれいとは言えなかったが、人形の型や途中まで色を塗った人形が雑然と置かれていて、本当に奈良さんのお宅へ来てしまったのだなという実感がわいていた。大きな風が吹くたびに玄関先の風鈴がさかんに鳴った。
「暑い夏の日には少しも鳴らなかったのに、もう十月にもなってこんなに鳴るなんて」と言って奈良さんはつっと立つと風鈴をとりはずした。その音が止むと、あとは大きな風がこの家をがたがたと鳴らすばかりだ。
「先ほどやって来た男性はここ一週間ほど毎日人形の催促に来てくれるのですが、なかなか出来上がらなくて。それにあなたにお渡ししようと思っていた人形も、昨日ふいに遠くから学生さんがみえて、どうしても一つ譲って欲しいとのことで断りきれずに渡してしまったのです」とすまなさそうに言った。部屋の中を見渡すと、人形をわけて欲しいという手紙や電話で受けたメモが壁いちめんに貼ってあった。

 人形のことについて色々なお話をうかがっていたとき、奈良さんが先ほど色を塗った大黒さんの人形をひょいと持ち上げた。その大黒さんと奈良さんの顔が重なったとき、あまりに似ていたので私はおもわず声を上げてしまった。
「毎日人形なんかを作っているとこんなのんびりした顔になるのかもしれませんね」と言って奈良さんは子供のように笑った。人形をわけてもらえなかったのは残念だったが何だかそんなことはもうどうでもよかった。

 奈良さんという不思議な魅力をもった人物とともに過ごしたほんの短いあの時間は、やたらと吹いていたあの信州の風の中に封じ込められてしまったような気がした。

 東京に帰って一週間もした頃だったろうか。何かの拍子に奈良さんの顔がふと思い浮かんだ。そのときなぜか次々に涙が落ちて、自分でもどうしたことだろうと思ったが、あんなことは初めてだった。後日友人にそのことを話すと
「やっぱり天使は本当にいるんだ。ときどき人間の中にまぎれこんでいるらしいよ」とうれしそうに言った。

 奈良さんに出会ったために信州の歴史を研究し始めた人、また、人形に興味を抱くようになり、ついには小さな人形の美術館を作ってしまった人、毎月のように彼を訪ねて酒を酌み交わす人、そんな人々が数多くいると聞く。

 これは後から聞いた話であるが、どんなに人形の人気が上がっても、子供の小遣い銭で買えるほどの値段しかつけないのが奈良さんの考え方らしい。土を採集して、型をとって焼き、胡粉を塗って丁寧に彩色する手間隙を考えれば、それはきれいごとで出来ることではないだろう。一家を養っていくためには家族との葛藤もあったにちがいない。穏やかな風貌の下に隠された人形にたいする情熱は並大抵のものではないはずだ。職人魂だとか、安易な意味での清貧などという言葉は奈良さんには似合わない。

 縁あって人から譲ってもらった奈良さんのお人形が数体、私の本棚の隅に仲良く並んでいる。寒い夜など天気予報を見ると、信州北部は今日も雪だろうか、と思ってしまう。しんしんと降る雪の中で、楽しげに人形を作っているであろう奈良さんの存在は、魂がそのまま座っているようで何だか心をあたたかくしてくれる。【完】

初出:2002年2月『アユミギャラリーニュース』第53号
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