文・ゆふねなおこ


日々を歌う 44

ベランダから見える世界


 会社を辞めて二ヶ月と少しの時間がすぎた。日常の何でもない風景のなかに起こるさまざまな不思議に気づきはじめたのはいつのことだったろうか。

 ある日、母が買ってきてくれた西洋朝顔が、大きな蕾をいくつもつけながらも開花しないことに疑問をもったことがきっかけだったかもしれない。体調をくずしていたことと、この夏の記録的な猛暑のために私は家にいることが多かった。細かい作業の連続だった編集という仕事を辞めたのちも、目の疲労はなかなか治らず、本を読むこともテレビを長い間見ることもできなかった。そのため、自然に私の目はベランダから見える風景を眺めることになった。

 前々号のこの欄で「ふるさと」について書かせていただいたけれど、こんな形で自分の「ふるさと」であるこの町を、もう一度ゆっくり見つめ直すことになるとは思ってもみないことだった。

 はじめは、ベランダに置かれた西洋朝顔の蕾が完全に開かないことが不思議で、毎日何となく気にしていた。米のとぎ汁を与えたり、場所を変えてみたりしたが、蕾は少しだけ開くと赤く変色してしぼんでしまう。開花しない日々が続き、これは病気かもしれないと思いはじめたころ、ふと暑さがやわらいだ日があった。すると蕾は、変色した部分をもちながらもきれいに開花したのだった。翌日、暑さがまいもどると蕾は開かなかった。西洋朝顔がふつうの朝顔に比べて暑さに弱いのかどうかわからないが、あまり暑いと咲かないことは確かなようだ。今夏の猛暑で、七月中は美しいブルーの花をなかなか見ることはできなかったが、蔓の成長は旺盛で、やがてベランダのフェンスを占領していった。

 その間、どんな虫が蜜を吸いにくるのか、どんな虫が棲みつくのかなど色々なことがわかってきた。園芸書をひもとけば一瞬にして得られる知識もあるかもしれないが、自分の五感だけで、ひとつのものをじっくり観察するおもしろさは、長い間忘れていたものだった。

 そんな喜びを知った私の五感は、小さなベランダをのりこえて、もっと広い世界へと向けられていった。ベランダの下はすぐ芝生になっており、ヒイラギモクセイの生垣や花ズオウ、金モクセイ、コブシなどの木が植えられている。少し目を遠くにやれば、近年すっかり弱ってしまっているけれどケヤキの並木も見える。団地のなかは都会のオアシスだ。毎日眺めていると、ヒイラギモクセイの上が蝶々の通り道であることもわかってきた。ブルーや黄のスジの美しいもの、黒くて大きな女王のようなもの。東京にもこんなに多くの蝶がいるなんて。

 また、幼いころよく捕まえた精霊ばったが、いまだにたくさん棲みついていることも大きな驚きだった。生い茂った草のなかの草色の彼らは、見ようとする者にしか見えないのだ。

 ところがある日、久しぶりに外出して帰ってくると、芝生を覆いつくしていた草のことごとくが刈りとられていた。草の良い香りのする一夜となったが、草に身を隠していた虫たちがどうしているのかが気がかりだった。

 翌日、ベランダの植木に水をやろうとして、一匹の精霊ばったを見つけた。蘭の鉢にいつのまにか生えていた名前もわからない細長い葉の上に。少し色は濃いものの形はばったにぴったりだ。降水量の少なかった今夏、芝生にふたたび草が生い茂るには時間がかかるだろう。不本意ながら彼はしばらくここにいることに決めたらしい。

 ある日、彼の食事風景を偶然見ることができた。前脚を器用に使って葉をたぐりよせ、小さな口をもぐもぐさせながら葉の先端から食べている。葉の先が枯れている場合は、上手にその部分を切り落とし、青いところだけを食べる。食べ終わるとポトリと細長いフンをした。

 その後、少しばかりの雨が降り、芝生の緑が回復しはじめると、いつの間にか彼の姿は見えなくなった。あの小さなからだのどこで、そしていつ「よし、ここを出よう」と決めたのだろう。

 この二ヶ月の間、小さなさまざまなドラマを見せてもらった。それは、見ようとしなければ決して見ることのできない日常の風景である。忙しさのなかですっかり忘れていたものをもう一度思い出させてもらった。私がまた仕事をするようになり、忙しさのなかに投げ込まれるようなことがあったとしても、日常のなかの不思議を見つめる感覚だけは二度と失いたくないと思う。一枚の木の葉が地上に落ちて完全に朽ちてゆくまでの、ゆったりとした時間を知らないまま生きていたくはないのである。

初出:2001年10月『アユミギャラリーニュース』第51号


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