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とにかく私にとって「ギリギリ」という言葉には悪いイメージしかなかった。ギリギリまで何もしない、とかギリギリまで寝ているなどなど、怠惰の象徴のような言葉である。現にこのアユミギャラリー通信の原稿もギリギリを通りこしてしまって、慌てて書いている。(編集の方、本当にすみません)私は編集の仕事に関わっているので、毎月毎月遅筆先生たちのギリギリにふりまわされているが、結局時間があるとかないとかはまったく別問題で、これはひとつの病気のようなものである。
ところがつい最近私の「ギリギリ」感をかえてしまった出来事があった。私の友人で箏奏者の高木景子さんが、ある日ほろりと「どんなに小さなスペースでもいいから、どこかお琴を発表できるところはないかしら」と言うのである。彼女は私たちがもっている従来のお箏の概念をかえてしまうような斬新な現代箏奏者である。これから本格的な演奏活動に専念してゆこうとしている楽しみな人なのである。私は暫く考え込んで、アユミギャラリーのことをふと思いだした。あの空間なら彼女の無国籍的な不思議な音にあうかもしれない。とりあえず、声をかけておけば、何かのおりにはお声がかかるだろう。一年先でも二年先でもいい、と彼女は言う。そこでアユミギャラリーの様々な行事のプロデューサーである秋馬さんに電話をしてみた。すると、秋馬さんは「それなら、今度の写真展『ギリギリ』のオープニングパーティーで演奏したらいかがでしょう」という。私はあまりに急な話にびっくりしてしまった。とにかくもう一週間もないではないか。それにお馴染み「武蔵野はちみつ団」の演奏のあとであり、彼女の演奏開始時間は午後十時ころになってしまうという。この悪条件ではきっと彼女はことわるだろうと私は思った。ところが彼女はきっぱりと「それなら、今からすぐ選曲しなきゃ。どんな条件でも発表できるなら、私、ギリギリまで練習するわ」というのである。「ギリギリ」?そうか、この「ギリギリ」はギリギリまでがんばってみよう、という「ギリギリ」なのだ。
当日、彼女は、本当にギリギリまで練習をかさね、一度も会ったことすらない「武蔵野はちみつ団」のドラマー長谷川さんのボンゴと即興演奏までしてしまった。力強いけれど繊細で不思議な音色は、大きな拍手をえて、様々質問もとびかった。「ギリギリ」パワーの威力をみせつけられたような瞬間だった。
それにしても、私もこんなすばらしい「ギリギリ」を身につけたいものである。ギリギリの原稿を書き終えながらしみじみ思っている。
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