文・ゆふねなおこ


日々を歌う 34

成長する廃虚


 子供の頃のことだ。今となってはそれがいったいどこだったのかも覚えていないが、そのとき私は大きな廃屋の前に立っていた。その廃屋の扉を開けると、いろんなものが私のなかへどっと流れこんできた。崩れきって、暗く寂しいその空間をじっと見つめていると、いいようもなく恐ろしくなって、私は体をひきはがすようにその場から逃げだした。大人になった今でも、あののしかかってくるような重い空間を忘れることはできない。あのとき私は、あの廃屋に出会ってしまったのである。

 何年か前に、丸田祥三という写真家の『棄景』という写真集を買った。そこには無情にうち棄てられていったものが犇(ひし)めいていた。幼いころ、まわりの人々とうまく折り合いをつけることができず、子供たちどうしの「お別れ会」にもよんでもらえなかったという丸田さん。彼は、無惨に取り壊されたある都電の存在をきっかけに、執念にも似た激しさで、バブルのときもレトロブームのときも「棄てられた風景」を撮りつづけたという。彼の写真には、私の出会ったあの廃屋の恐ろしさはなかったが、それでもある悲しみが写されているように思った。

 そして最近、廃墟や廃屋を撮った写真集を多く見かけるようになった。廃墟特集を組んだ雑誌まである。それはそれでおもしろいことかもしれないが、多くの人々が廃墟に目をむけ、それを見るために訪れるようになったとき、そこはもう廃墟でもなんでもなくなってしまう。そこは廃墟の顔をした立派な舞台装置になってしまうのだ。「みなさま、お待ちしています」という看板をかかげた、がらんと寂しい空間が待っているきりだろう。私が幼いころに、無自覚的に出会ってしまったあの廃屋の凄みや、丸田さんの写真の悲しみはもはやそこにあるはずもない。

 だれの記憶からもまったく忘れさられ、それでも深い闇の中に確かに存在しているもの、それこそが廃墟なのかもしれない。だとしたらこの時代にとっての廃墟とは何なのだろう。ある日、はからずも出会ってしまい、その闇の深さに愕然としてしまうもの。今も私たちのまわりには、目に見えない多くの廃墟が成長をつづけているにちがいない。

初出:2000年2月『アユミギャラリーニュース』第41号


戻る   ■  目次へ     次へ