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ある冬の日、波の荒い海を車窓に流しながら、私は一人の女性から雛(ひいな)の話をきいた。
彼女は、大切な雛人形を戦火の中に失ってしまったという。その後も、その一対の雛を忘れることができず、ことあるごとにその面差しを心にとめてきたけれど、なかなか同じようなものをみつけることはできない。ところが、最近、友人にすすめられて入った人形店で、はっとするような一対の雛に出会い、迷うことなく、それを求めたという。戦火の中に失った雛に似ていたのである。それでも、家に届けられた包みをひろげてみると、どうしても違う。どこがどうというのではないけれど、やっぱり何かが違うのである。
「あの日、失ってしまったお雛様は、これといって特別豪華というわけでもなく、目が大きいわけでもなく、そうかといって、細すぎるわけでもない、ごくごくふつうのお顔だちで……」。
まるで目の前の雛に、一枚一枚衣を着せてゆくように言葉は重ねられ、私の胸の中に、恐ろしいほど静かな春の野原があらわれる。《ごくふつうのお顔だちの雛……》それは、どんな美しい言葉よりも力のある響きをもっていた。灰色の冬の海と、黄(きい)や桃色の花の咲くなだらかな野原は、どちらも彼女の心の中の風景のように思えた。たぶん、どんなに思っても手にすることのできないものが、自然とそこに集まり、ひとつの風景を作りあげているのだろう。特別ではないもの、ごくふつうのものを失ったとき、それがある大きな存在となることは、そう珍しいことでもないに違いない。私は自分の雛を思っていた。少し欠けてしまった指を思っていた。そして、それは、私が生きてきた時間の分だけの陰と光をもち、ごくふつうの面差しで、毎年、私の前に飾られるのだ。
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