[ 建築っていったい何? ]

 『まちと建築を再生する』(鈴木喜一著/武蔵野美術大学出版局刊)を読んでふと思ったことがある。
 まずこの本の立脚点「再生する」という本義には、現状のまちと建築はダメだという認識がある。高度経済成長期以降の経済偏重合理主義による乱開発やスクラップ・アンド・ビルドを嘆き、それによってまちの景観や風景がダメになってきたと主張している。そして「開発」という「疾走」をやめて「保存」という「歩行」をすべきだと著者は説く。幾つかの壊れかけた建物を再生した事例が挙げられ、登録文化財などの手段が有効であるとも述べている。数年前から始まった神楽坂建築塾の試みについても触れている。また山や森の現状を伝え、このまま疾走を続けては地球さえおかしくなるという警鐘を鳴らしている。
 が、その山と森の困窮を語っていたはずが、話しがいつのまにか欅遊庵なる小屋の話になったり、ミャンマーでは現地の人と成り行きで作ったバンブーハウスなど、これが建築なのか?と思われる物も登場する。さらにこの本がユニークなところは世界各地の旅のエピソードとそこで描かれたスケッチが紙面の多くを占めている事である。ここが最も著者らしいところであるが、もともとこの本は著者が講師を務める「建築論」という講義のテキストとして編纂されているにもかかわらず、著者は書中で「果たして建築論と言えるかどうかは疑問である」などとつぶやくのである。そして、ふと「建築っていったい何?」と思ってしまうであった。実はこう思った時点で既に著者の罠に嵌まっているのかも知れない。「建築」を根本から問い直す事へ読者を陥らせているのである。
 そもそも、「建築」という用語は明治の初めにArchitecture(フランス語の「アルシテクチュール」)の訳語として当てられ定着し現在に至っている。当初は「造家」と訳されていたが、それを「建築」に差し替えたのは築地本願寺の設計で知られる建築家、伊東忠太である。この「造家」から「建築」になった事には賛否があり、またその事情に点いては諸説があるが、どうやら「アルシテクチュール」は技術的意味だけではなく美術的意味をも内包しており、訳語としてどちらが相応しいかという事が論点となったのは確からしい。しかし、現在の日本にあっては、そんなこととは裏腹に建築が美術であるという認識があまりにも希薄である。説くに戦後は技術一辺倒と言っても過言ではない。これでは「景観」や「風景」が蔑ろにされるわけである。とすればなるほどスケッチは「建築」にとってより効果があるようだ。
 ところで、Architectureが意味するところは建築に留まらない。造船はNaval Architecture、造園はLandscape Architectureである。また、最近騒がしいITの世界でも、コンピュータの原理や仕組み、あるいはシステムの構築方法や設計思想などのことをArchitectureという。さらに、音楽においても、同様に曲の構造や構成を指してArchitectureと聞く。
 そう考えると、神楽坂建築塾が建築関係に従事している人だけではなく、建築愛好者をも対象としている事は極めて意味があるだろう。まちと建築がダメになったのは、狭い業界の中だけでぐちゃぐちゃやっていたからなのかもしれない。

アユミギャラリーニュース59号(2003年2月)に掲載 

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